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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方⑨】走れ走れ(体育としての演劇)/95年10月号

演劇の正しい作り方9/95年10月号

いよいよ実践に入る。
 まずは、「走ろう!」
 何をいきなり?
 と思うかもしれない。それはわかる。わかるがあえて言いたい。
 「走ろう!」
 とりあえず走ってみよう。考えてから走るのではなく、走ってから考えてみよう。それが重要なことだ。
 今回はその理由を考えていくことにする。

 演劇の第一歩が「走ろう!」だと聞いて、「そんな・・・運動部や体育会じゃあるまいし」とあきれるのは、当然かもしれない。
 「だって演劇はスポーツじゃないんだぜ、文化なんだぜ」
 ところが・・・
 『演劇は体育である』
 と、ぼくは考えている。正確には、考えるようにしている。
 違うという意見ももちろんあると思う。
 『演劇は国語である』
 実をいうと、日本の演劇は今まではこれでやってきた。いや、今だってほとんどの現場が『国語』でやっているんではないだろうか。
 ことわるまでもないとは思うが、教科として演劇を考えた場合、どの教科に対応していると考えるか、という話である。
 今までは、『国語』でよかった。あれこれ論じても始まらない。日本演劇の輝かしい歴史はその考え方のもとに築かれてきたのである。しかし、世の中が変わるにつれ演劇も新しい段階に入ってきていると思う。その際欠けているのが演劇を『体育』としてとらえる視点ではないかと思うのだ。
 本音を言えば、
 『演劇は演劇である』
 それ以外には考えられない。
 『演劇は演劇である』
 どうやらこの当たり前のことがあまり理解されていないようなのだ。
 もし『音楽は数学である』と言ったら随分乱暴な考え方だと思うだろう。数学をどんなに駆使しても音楽を説明しきることなどできないからだ。
 『美術は理科である』などと言ったら乱暴を通り越して滑稽ではないか。
 『音楽は音楽』であり、『美術は美術』である。同様に『演劇は演劇』なのだ。
 ところが残念なことに『演劇』はいつの頃からか『国語』の一部として教育されるようになっている(一体いつからなのかご存知の方は是非教えていただきたい)。
 『演劇は国語である』が、まかり通るようになってしまった。教育されるということは社会がそうとらえるということだ。その弊害は計り知れない。間違いなく日本人の演劇理解のレベルを落としていると思う。
 『国語』ではない、とは言わない。がそれは一部でしかないのだ。それをはっきりしないといつまでも『演劇』を『文芸』の一部としてとらえる貧しい風潮は変わらないのではないかと心配だ。
 だから、ショック療法の意味も兼ね、あえて『演劇は体育である』と主張しているのだ。

 さて、とにかく稽古のはじめには走る。ぼくはそういう(特殊な)教育を受けた。それをあまり疑ったことがなかったので、今ここでなぜ走るかを考えるのは逆にとまどいを感じるほどだ。
 「身体づくり」という目的はあるだろう。体力。俳優をやるにしたって、スタッフをやるにしたって体力は必要だ。
 考えてみれば当たり前の話なのだが、演劇は、ある人がある人の前で何者かを演じて見せる行為である。演じ手はほぼ例外なく全身を観客の前にさらす。従ってそのさらされる身体というものについてある種の認識が必要になる。見られる身体がどういう身体なのかを学習し、能力アップを図る様々な訓練法がある。それをこなす基礎体力づくりとして走るのは有効なのだ。
 むろん、ただ無闇に「走れ」と言っているのではない。脱水症状をおこして倒れたり、交通事故に遭ったら元も子もないし、急に激しい運動をすればヒザを痛めたり、足をくじいたりする可能性だってある。
 大事なのは「身体をつくる」という意識だ。身体をつくらなければ演劇はなかなかつくれない、という考え方を持つことだと思う。
 けれども、そうしたことはすぐに分からないはずだ。半年くらい続けてようやく分かってくることなのではないだろうか。何と言っても根本的な認識を改める作業なのだ。『演劇』を『国語』から『体育』に切り替える大作業なのである。理屈でいくら説明してもわからない場合もある。子供にひらがなを教えるとき、教える意味までは教えない。それと同じ事だと思う。演劇の初心者は演劇に関しては「子供」だし、「身体づくり」は「ひらがな」同様、演劇的教養の基礎なのである。
 だから、楽しんでやる。
 暑ければプールで泳げばいい。寒ければスケートでいい。雨ならば室内で鬼ごっこをしてもいいのだ。試しに走ってみると、思っていたより走れるものだと自分に感心するかもしれない。稽古のたびに走るようになると次第に走るだけでその日の体調が分かるようになる。たまに走るとどの程度怠けていたかのバロメーターにもなる。それに何より汗を流すことがとても気持ちのいいことだと発見することだろう。
 勘違いしないでほしいがいくら走っても、またたとえどんなに速く走れるようになっても、それは演劇の上達とはほとんど関係がない。「ひらがな」なのである。それをどんなにうまく、あるいは速く書けるようになったところで詩や小説が書けるわけではないのだ。問題は『体育』的視点が欠けた場合、ややもすると「ひらがな」も書けないのに詩や小説を書くような演劇が横行することになる。それは寂しい。
 走るようになると、そのことを通じて自分の身体とコミュニケーションが取れるようになる。次第に分かってくることだが、自分の身体はとうてい自分の思い通りに動いてはくれない。それを知るのが基礎トレーニングの全てといってもいいくらいだ。
 冒頭でも述べた通り、考えてから走ろうとしてもなかなか走ることの意味をつかむことはできない。走ってから考えてみるとそこには演劇を作る上でさまざまなヒントがころがっていることに気づくだろう。あれこれ考えず、まずやってから考える、という思考法も演劇作りでは大切だと思うのだ。

「演劇ぶっく」誌 1995年10月号 掲載

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