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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方⑪】劇団共存のメリット(体育としての演劇3)/96年2月号

演劇の正しい作り方11/96年2月号

 早稲田大学演劇研究会(劇研)のはなしをつづけることにする。
 劇研の中で劇団を旗揚げしようとすると実に手間がかかる。
 まず、劇団の核としての3人の「旧人」を集めなければならない。
 「旧人」についてはいささか説明が必要だろう。入りたての「新人」と対比する意味合いで「旧人」なのだが、劇研では原則として3年目になるまでは「旧人」とは呼ばれない。「旧人」になってようやく一人前のあつかいをされる。それまでの2年間はほとんど発言権がないのだ。というのもこの2年の間に、はじめは百人近くいた「新人」が数人にしぼられる自然の選抜がおこなわれるためだ。
 きびしい、というのは当たらないかもしれないが、3年目まで残る倍率は相当高いことになる。演劇以外の大学生活も楽しみたいとか、できれば4年で卒業して就職したいというような希望が当人にある場合、ほとんど残れない。というよりバカらしくて残っていられない状況が劇研にはある。したがって、その条件をクリアした人間をまあ人並み以上に「演劇的情熱」のある者として一人前にあつかうのである。
 その「旧人」が少なくとも3人は集まらないと劇団を作る話さえできない。
 「作ろう」ということになると、それぞれの所属する劇団の主宰に相談する。
 そして「拡大運営委員会」なるものが開かれる。「運営委員会」とは劇研の中で演劇づくり以外のすべての仕事を切盛りしていく執行部のことで、それに劇団主宰者を加えたものが「拡大運営委員会」と呼ばれる。
 ここで劇団を作りたいその3人(場合によってはそれ以上)の「旧人」の意志が確認される。本気でやる気があるのか、まかせて大丈夫な実績はあるのかというような審査があって、旗揚げのはなしは「総会」にはかられることになる。
 「総会」では文字通り劇研会員のすべてが一堂に会して多数決にかけられる。ここで3分の2の賛成がないとはなしは流れてしまう。たとえクリアしてもすぐに劇団として認められるわけではない。
 先輩劇団のスケジュールの合間を縫って「試演会」をおこなう。これが旗揚げ公演にあたるわけだが、入場料を取ってはいけない。稽古場も先輩劇団の使っていない時に限られる。
 その後再び「総会」が開かれ、「試演会」の内容があまりに悪いと正式な劇団として承認されないこともある。再度3分の2のOKが必要となるからだ。
 こうして書いていても呆れてしまうほど面倒な手続きを踏んで、劇研ではようやく劇団としての活動ができることになる。
 「運営委員会」だの「総会」だのややこしいのは、高校演劇のように顧問の先生がいるわけではないからだ。すべてがルールに乗っとった話し合いで決められる。劇団の作り方も「劇研規則」の中で厳密に定められている。
 劇団を作るのにこれほどのハードルがあるのもあながち理由のないことではない。
 いったん劇団になるとアトリエとテントという2つの稽古場兼劇場が1年を通じて使える。新人の勧誘も認められる。また公演は劇研主催になるから照明・音響などの機材は自由に使え、仕込みやバラシにすべての劇研会員を動員できるようになる。いうなれば50人からの人間を自分たちの公演スタッフとして使うことができるのだ。当然その自覚がないと困る。生半可なことで公演を中止されたり、劇団を解散されたりすると劇研が責任を肩代わりしなくてはならないし、入った新人も途方にくれることになる。こうした悪影響を極力さけるためなのだ。

 あまりのわずらわしさに劇団を作るときは閉口するものだが、しばらくして劇研を出ると、結局プロを目指す劇団なら通過しなくてはならないことだったのだと思い当たる。いや、それ以上に貴重な経験をしたとさえ思えるのだ。
 一つの場所に3つの劇団が同居している。これが山の手事情社が劇研に所属していたころの状態だった。
 そうすると不思議なもので、お互いをライバルとして意識しはじめるのである。
 しごく当然のことではないか。
 と思うかもしれない。漠然と同じ世代でもあるしライバルだと考えることはあるだろう。しかし、他劇団と自分の劇団をあれほど微に入り細にわたって比較対照した時期をぼくはその後持たない。
 たとえば次回から紹介していこうと思っている身体訓練の方法ひとつを取ってみても、もともとは劇研内であれば共通している。
 ところがある日ある劇団が転換をはかったとする。柔軟運動をやけにていねいにやるようになったとか、水泳や縄跳びを取り入れるようになったとか。
 その変化には必ず理由がある。少なくとも今までやってきたことよりはそちらの方が効果がある、ありそうだという見通しがあることになるだろう。その理由が有効ならば、他劇団でもすぐに取り入れる。
 さらに考えを進めると、では今まで何気なくやっていた訓練には一体どういう意味があるのだろうという議論に発展する。
 そして実は身体訓練と、その劇団が作ろうとしている演劇の内容は直結していなければならないことに思い至るのである。
 それではぼくらが目指している演劇とは一体どんなものなのだろうか、と。
 場合によっては身体訓練など一切必要ないのかもしれない、もっというと劇団という形態は本当に効率的なのかという次元まで考えさせられる。結論が出ないと、訓練一つ始められないところまで徹底的に疑う機会が与えられるのだ。
 けれども製作の現場ではいくら疑っても演劇は作れない。疑いつつ作る、作ってはまた疑うという作業があの現場のすべてだったという気がする。
 演劇的に鍛えられるということはああいうことなのだろう、と今では思う。
 結果としてぼくらには、やるべきこととやらなくてもいいことの区別がつくようになる。自劇団の伸ばしていくべき個性と、逆に劇研の守っていくべき伝統との区別が明確につくようになる。
 地方の時代が叫ばれて久しいものの、地方で演劇を自立させることがまだまだ難しい。大学の劇研はその中核になる条件をととのえていると思う。必ずしもよいお手本とはいえないと思うが、何か指針になればと手前味噌なはなしをした。

「演劇ぶっく」誌 1996年2月号 掲載

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