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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方㉖】スタートライン(体育としての演劇15)/98年8月号

 演劇の正しい作り方26/98年8月号

 演技のゴールとは何だろう。
 とりあえず一つの芝居、一つの公演で考えると、それはある役を演じることになると思う。ハムレットでたとえれば、ゴールはハムレットの役を作るということ、結果として「ハムレットになる」あるいは「ハムレットをやる」ということになる。
 このゴールは果たして「演技そのもの」なのだろうか。一般のお客さんがゴールだけを云々するのは当然のことだ。観客にとってゴールは「演技そのもの」だろう。けれども、稽古場でも演技とはゴールのことだけを指すという錯覚が根強くはびこっているようにボクには感じられる。ゴールは「演技の結果」なのだということが忘れられてはいないだろうか。ゴールがあるように、スタートも明確に存在する。スタート地点からゴールまでの過程を「役作り」と呼ぶのかもしれない。そうした作業への科学がほとんどないままに、ゴールのみを見て、演技を検討する。そうした傾向が強いのではないかと危惧する。
 スタートとは何か。つまり、演劇を作る上でその集団の前提となる教養とはどういうものなのか。それについての相互理解が俳優たちの間で、あるいは俳優と演出家の間で成り立っているのだろうか。
 スタートとは俳優が自分自身をどのように把握しているかということにつきるとボクは思う。具体的には、ハムレットが歩き、喋り、笑い、悩む前に、俳優が普段自分はどのように歩き、喋り、笑い、悩んでいるのかをどの程度意識し客体化しているか。すなわち自分を観察しているか。自分に対する好奇心を失っていないか。
 厄介なのは、「演技」というものが、形のあるモノではなく、しかも誰かの主観でしか判断されないものだということ。さらに「役を作る」作業はほとんど俳優の内部で行なわれているということ。作られた成果を定規で測って品質がいいか悪いか判断できるようなものではない。しかしそれは、全てが神秘のベールに覆われていていいということでもないはずだ。もちろん演技に神秘的な要素がないとは言わない。ものを創る作業には説明しきれない要素が必ず含まれている。けれどもそれは、科学的な視点の立ち入る隙が全くないということではないのだ。でなければこうした文章を書く必然性などなくなってしまう。自己把握をスタートラインと考える。というより、もしかすると「役作り」のほとんどは自己把握の作業だと言っていいのかもしれない。
 まずは、日常生活で自分がどのように動いているか、確認してみることにしよう。わざわざこうした作業をしなくても、演劇的好奇心のある人ならば、自然にこうした観察をおこなっているのではないかと思うし、日常生活の中で自己観察する視点さえ手に入れてしまえば取りたててトレーニングする必要などないのである。

日常の動きをチェックする

ほとんど意識することなくおこなっている日常的な動きを改めて確認してみる。その際、実際に扱ったり、使ったりするモノを使わずにやると有効だ。衣服の着脱であれば、衣服を使わずに。洗髪や歯磨きもシャンプーやブラシを使わずに。食事もしぐさだけでおこなう。普段どうやっているのかわからなくなったら、その時は実物を使えばいい。

■Tシャツを脱ぐ
Tシャツを着たり脱いだりするときの身体の動きを観察する。脱ごうとしてシャツをつかむ時、どちらの腕が上になるだろうか。どの指からシャツに触れるだろう。ひじの位置はどのように変化するのか。首を抜く時、あごはどのように動いているだろうか。

[check!]脱ぐ時と着る時とではどう違うのか確かめてみる。ボタンがあるシャツの場合はどうだろう。肌に当たる布の感覚を思い出してみる。

■髪を洗う
シャンプーを取る時、どのような身体になっているだろう。シャンプーはどちらの掌に受けるのか。髪はどこから洗い始めるのか。洗いながら、頭の向きはどう変化しているだろうか。

[check!]洗い流す時にお湯はどのように流れていくか思い出してみる。

■歯を磨く
歯磨き粉をつける際、ひじの位置はどこにあるか。口の上下左右どちら側から磨くのか。一箇所で何回くらいブラッシングするのか。その時々の目線はどこに向っているか。

[check!]歯磨き粉のかおりが口の中に広がっていく感覚を思い出す。

■ごはんを食べる
炊き立てのごはんの温かさをどこで感じているのだろう。顔で感じるのか、掌で感じるのか。おかずとごはんをどのような順番で食べているだろう。箸を一回口に入れるたびに何回くらい噛むのだろう。

[check!]今朝食べたもの、昨日食べたものの味や状況を思い出してみる。

「演劇ぶっく」誌 1998年8月号 掲載

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