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コラム

安田雅弘演出ノート

あたしのおうち/2019.3

まぁこれくらいは押さえておこう/安田雅弘(監修)

「これから一年間《山の手メソッド》を体験していただきます」
研修生の稽古初日にそういう案内がある。募集要項やウェブサイトにも《山の手メソッド》と書いてある。
外部で行なうワークショップでは「《山の手メソッド》にもとづいたトレーニングをおこなう云々」と説明が入る。
研修生やワークショップに参加される方々は、おそらくどこかに《山の手メソッド》という確固たる稽古方法があって、これから自分たちはそれに向き合うのだと心積もりすることだろう。
それはそれで間違いではない。むしろありがたいことです。が一方で、ボクたちが35年前に劇団を立ち上げた時には別に「《山の手メソッド》を作ろうぜ」などと示し合わせたわけではなかった。そんなことはつゆも考えずに「自分たちがわくわくする演劇を作ろう」と日々身勝手な意見やアイデアをぶつけ合ってはムチャな試行錯誤を繰り返していた。そして次から次へと、本当に次から次へと違う作り方の舞台に取り組んで行った。「取り組んで」なんて言うともっともらしいが、ただ単に(おそらくボクが)人並以上に飽きっぽくて辛抱が足りないんだと思う。たとえば10年前、20年前、30年前と思い返してみても、それぞれまったく違う。よくもまぁこんなに変わったものだと自分でも呆れる。
はっきり言いましょう。《山の手メソッド》はその変化の過程で生まれた偶然の賜物、いわば副産物に過ぎないのです。

劇団とは芝居を上演するという特異な目的のもとに人の集まる団体である。集団だからさまざまな事情でメンバーがぬける。いわく、子供が生まれて、バイトのはずが出世しちゃって、ダンナが地方転勤で……。フリーでやっていく、演劇をやめる、という人もいる。退団者が出るのは宿命で、活動を継続するなら欠員補充が必要だ。めでたく新人が入ってきた。で、そこからが問題。
「今、ウチで芝居を始めるとして、最低できなきゃいけないことって何?」
どんな集団でも集団である以上同じ課題を抱えている。街のサークルでも、大学のゼミでも、企業でも必ずある。
「まぁこれくらいは押さえておこう」という、団体内で「会話」するための、作業を進める上での「基礎言語」、いわばスタンダードってやつが。
山の手事情社の場合、それが左のページの「構成表」にある《ショートストーリーズ》だったり《フリーエチュード》《ルパム》《ものまね》だったりする。次から次へといろいろな芝居に手をつけるうちに、新人への課題もどんどん増えていった。他方「これはもういらないよね」と廃棄されたものも数多くある。そうして徐々に整ってきたのが現在の《山の手メソッド》である。あくまでも「山の手事情社で活動するためだけのスタンダード」のはずだった。
ところがここ数(十)年、あちこちの演劇の創作現場を覗くうちに、演劇界にはほとんど「スタンダード」らしきものがないのではないかと感じるようになった。アマチュアならともかくプロでさえ。

そもそも「劇団」や「演劇」が何のためにあるのか世間一般はともかく肝心の演劇界でもはっきりしていない。劇団に所属していない俳優が圧倒的多数だし、あっても他の劇団はボクらのように無節操に作風を変えたりしない。劇団ごとにスタンダードがあってもなかなか幅のあるものにならない。わが国は演劇のスタンダードが「ない」国なのだと、はたと気がついた。そんなの先進国では日本だけ。生活に演劇が浸透しないわけだ。
演劇が存在しないだけなら、それほど深刻ではないかもしれない。それよりも演劇にまつわるあれこれの教養が社会に欠けていることは、心を病んだ子供や若者や大人やお年寄りが増えることはあっても減ることがないってことだ。〈演劇的教養〉とは自分の心の内側を身体や声を使ってつまり全身で見つめる方法論のことです。他人の心はおろか自分の心も読めなくなっている人が増えるはずだよ。

長くなってしまった。大先輩の演出家ピーター・ブルックも言っている。バレリーナはどんなにうまくなっても毎日の練習をバーレッスンから始めるように、演劇にもそういう稽古のスタンダードが必要だ。ハイレベルの表現を目指すなら、なおさらのこと。《山の手メソッド》はそのスタンダードになりうると今ボクは静かに自信を深めている。
研修生諸君、キミらはまがりなりにもそれに一年間どっぷりとつかった。へこみやすかったひよわなキミらがお世辞でなくたくましくなった。マジで。自信を持て。そして演劇の、〈演劇的教養〉の威力を客席に見せつけてやれ。

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