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コラム

安田雅弘演出ノート

過妄女/2019.6

剥製たちのボードビル/安田雅弘

 『かもめ』は私にとって「剥製たちのボードビル」なのだ、という考えに至るにはいくつかのきっかけがあった。
 一つはこの戯曲を一緒に読んでいた劇団メンバーから出た「トリゴーリンっておそらく退屈な男なんでしょうね」という指摘だ。ことさら新しい解釈ではない。いい加減な記憶だが、モスクワ芸術座の公演でトリゴーリン役を演じたスタニスラフスキーが、パリッとしたスーツを着ているのを見て、チェーホフが「トリゴーリンてのはそういうことじゃないんだよな」とつぶやいたというような逸話を読んだ記憶がある。確かに、トリゴーリンが機転の利く、口の立つ、キレッキレの男だったら、アルカージナは彼を交際相手には選ばなかっただろう。小説は面白く売れっ子ではあるが、男としては「退屈」なのだ。だから安心してつきあえる。田舎娘のニーナに創作の苦しみを生真面目に吐露しているところなどを見ると、女の扱いにも慣れているとは思えない。トリゴーリンに限らない。この戯曲には「恋愛」とともに、「退屈」が横溢している。「相変わらず」という言葉が何度も出てくる。
 もう一つは平成から令和に移り変わった今の日本に身を置いている自分が、この作品を面白いと感じるのはどうしてだろう、という疑問だった。「普遍的な作品なのだ」と言ってしまえばそれまでだが、作り手としてはそこで思考停止するわけにも行かない。
 その時ひっかかったのが作品に出てくる「剥製」という言葉と、作中トレープレフが書いたことになっているニーナの一人芝居のセリフだった。作品の最後の方でシャムラーエフがトリゴーリンに語りかける「剥製」の存在は、トリゴーリンとニーナの恋がすでに「生きたもの」ではなくなっている比喩ととらえることもできる。しかしそれにしても唐突な気がするし、二回もその話をする理由が謎だ。もう一つのニーナの一人芝居では、その舞台にアルカージナが茶々を入れ、結果としてトレープレフは芝居を中断してしまう。もちろんトレープレフには母親に認めてもらいたいという強い気持ちがあるから、アルカージナのちょっとした一言でも彼の胸には突き刺さるような痛みを伴っていたと考えることはできる。が、私にはアルカージナだけでなく、あの芝居を見ていた多くの観客(登場人物たち)が彼女と同じような感覚を抱いていることをトレープレフが鋭敏に感じとったのではないかと想像する。なぜ「あの程度」のセリフに人々は過剰に反応したのか、と考えたとき、実はこの作品には「剥製」と「生きた人間」との見えざる対立が埋もれているのではないかという思いが頭をよぎった。「退屈」を住処にする「剥製」と、大げさにいえば「自分は世界を変えることができる」と夢想する「生きた人間」との対峙である。
 ざっくりと「自分の力で運命を切り開いていける」と感じている人間を「生きた人間」と定義すると、この作品の冒頭でそれに該当するのはトレープレフとニーナとマーシャだけで、あとは「剥製」と考えることができる。むろんこれは私の妄想にすぎないが、現代の東京に生きている私がこの作品をとらえる上ではかなり核心的な気がした。
 私は日本という国が、東京という都市が好きだ。しかし、日本にも東京にも「剥製」を感じる。たとえば高校生が将来就きたい仕事ランキングで公務員が高順位だという。公務員の仕事を貶める意図はいささかもないが、志望動機が「安定した収入」と聞くと残念な気がする。少子高齢化ということもあるのだろうが、保険のCMが幅をきかせているのも引っかかる。新聞などの媒体のありようや、惰性のようなテレビ番組も気になる。ひょっとすると多くの日本人と共有できる思いではないのかもしれない。しかし、芸術家の役割が、世界や社会のある断面を切り取って見せることにあるとすれば、現代日本社会の「剥製」感は私にとってはまぎれもない実感なのである。

 二十年ほど前から《四畳半》という様式の実験に取り組んできた。いわゆるリアリズムの演技とは違う。何が違うのか、と言えばリアリズムの演技は大道具や小道具の存在を前提としている。大道具や小道具とどう関わり戯れるかがリアリズム演技のテーマなのだ。一方《四畳半》ではそれを前提としない。極端に言えば、何もない空間で衣装を着けただけの俳優たちがどのように振る舞うと演劇的な空間が現出するか、をめぐる実験である。今回も例外ではない。
 言うまでもないが、様式とは、理解不能で難解なものではなく、むしろより深い作品把握に有効でなくては意味がない。私たちには一見不可解に思える能楽や歌舞伎の型は、当時の人々にとっては作品世界を享受する上で画期的にわかりやすく濃密なものであった。私たちがそのように感じられないのは、見慣れていないからであり、その部分の〈演劇的教養〉が不足しているからだ。アマゾンで原始生活を送る部族にベートーヴェンの『第九』を聞かせても騒音でしかない。彼らの〈音楽的教養〉は私たちのそれとは根本的に違うからだ。
 稽古場では作品ごとに俳優たちとともに、どのような演技スタイルが有効なのかを長時間かけて徹底的に議論する。今回はザ・スズナリで『かもめ』を上演する上で、どのように振る舞えば客席に作品の世界をより迫力ある形で見せることができるのかを考え続けた。最低限の小道具は必要になった。今までご覧になった《四畳半》とは違って見えるかもしれないが、私たちにとっては今回の形がこの作品における《四畳半》なのである。

翻訳:神西清訳(新潮文庫刊)をおもに使用。池田健太郎訳(「『かもめ』評釈」 中公文庫刊)、沼野充義訳(集英社文庫刊)、小田島雄二訳(『ハムレット』 白水Uブックス刊)も参考にさせていただきました。

参考文献:『チェーホフ』(浦 雅春著 岩波新書刊)、『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(沼野充義著 講談社刊)、『チェーホフの世界 私の方法序説』(中村雄二郎著 白水叢書刊)、『チェーホフ劇の世界 その構造と思想』(佐藤清郎著 筑摩書房刊)、『チェーホフのこと』(ボリース・ザイツェフ著 近藤昌夫訳 未知谷刊)、『チェーホフの手帖』(神西清訳 新潮文庫刊)、『チェーホフを楽しむために』(阿刀田高著 新潮文庫刊)

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