ライブラリ

コラム

演劇的知の貧困について

身体を味わう視点

安田雅弘(2000.11:演劇人)

自分の身体を味わう、という感覚は特に希薄に感じられる。それ以前に、味わうべき肉体についての自覚すらあやしい。この感覚や自覚の乏しさが「演劇的知」を考える上で大きな障害になっていると思われる。全ての、とまでは言わないまでも、「演劇的知」が社会常識化しない原因のほとんどはそこにあるのではないだろうか。逆に言えば、この感覚を手がかりとして、世界を相対化するさまざまな視点を手に入れたり、考えることもできるように思う。

文明の中で暮らすことは、当然のことながら、個人に意識と身体の切り離しを強いる。(それこそまさに〈近代の知〉の所産と中村も指摘している。)その切り離しに成功した人間ほど有能と評価される。身体が睡眠を欲しているからといって、予定以上に眠っている人間は無能と判断される。つまり、私たちは身体の持っている欲望に鈍感になることを訓練づけられていると言える。これが高じると突然死などという、自覚のないままに自分の生命を自ら危険にさらす事態にいたる。少々古い資料ではあるが、一九九一年の厚生省の発表によれば、壮年期に死亡する人の八人に一人が突然死である。高血圧や、過労だったりはするものの生活に支障のある病気があったわけではない。身体は疲れ、「休ませてくれ」と悲鳴をあげているのに、意識は「平気平気」とその悲鳴を無視し、やがて身体が限界をむかえ、意識もろとも倒れてしまう。十分に解明されているわけではないが、そうしたメカニズムによって突然死はもたらされるのではないかと想像される。

そこまではいかなくとも、現代人は多かれ少なかれ意識と身体の乖離を文明生活者の宿命として抱えている。この乖離はときとして人間の実存在さえ疑わせる。生きている実感が持ちにくくなるのである。

少し前の話になるが、阪神大震災の折、若いボランティアの活躍が話題になった。たくましい行動力と組織力で行政顔負けの機動力を発揮し、初期の復興に一役買ったと報道されていたのをおぼえている。彼らは偶然にも天災によって現代の日本では稀有な状況に身を置くことになったといえるだろう。身体を動かすことが自分の外界に直接影響を与え、それが高く評価されるという状況である。あれこれ理屈をこねるより、たとえわずかでもポリタンクに水を汲んでくることの方がはるかに有効な世界。彼らの表情は確かに輝いていた。けれども私はその輝きが、皮肉にも震災の破壊によって、生まれて初めて自分たちが拠って立つ肉体を獲得したことによるものなのではないかと疑った。同じ頃問題になったオウムの一連の事件も現代人の身体が置かれている状態という意味で共通するものを感じる。事件に関与した信者たちの教団に帰依するきっかけとして、ヨガやマッサージが挙げられている。多くの者はそれらによって健康を取り戻し、身体が清められたと感じたようである。おそらくその通りであろう。先程の伝でいえば、彼らは教団によって身体を与えられたことになる。自分の肉体の発見は、おおげさでなく、生きていることの発見でさえあったろう。その感動は信者に教団への帰依を促すには十分効果があったと推察される。

共通していることは両者とも現代人の身体の感覚が未発達で無防備なのではないかと感じさせるところである。震災のボランティアとカルトの信者では社会に及ぼす影響は正反対といっていいかもしれないが、現代人は状況によってそのどちらにも転んでしまいかねない危険性を持っていると私には思われる。身体感覚が鍛えられていない。うぶなのである。

この場合、身体感覚は味覚にたとえるとわかりやすいかもしれない。さまざまな料理を味わったことのある味覚はなまなかなことでは興奮しない。うぶな身体感覚はほんのささいな動機でも暴走する危険性をかかえている。何もそうした極端な例に限らない。現在全国的に相当な頻度と広がりで一般の人を対象とした演劇のワークショップが開かれている。そうした参加者から受ける印象もまた同様である。受講者の年齢は中学生から六十才すぎくらいまで、地域も都市部に限定されず、幅広い。彼らは強い好奇心を持ってワークショップにのぞんでくる。しかし、その現場では簡単な柔軟運動や筋力トレーニングさえおぼつかない。それらが必要だという自覚はまず皆無である。演劇は人前に自分の存在をさらす行為で、さらされる肉体を調整するのは当然のことだと思うが、トレーニングをおこなおうとすると、意外だという反応が返ってきて、かえってこちらがびっくりする。具体的な資料がないので詳しくは指摘できないが、現代人の柔軟能力や筋力は数年前と比べても目に見えて落ちてきているように思われる。トレーニングは多少の苦痛を伴うものの筋肉や内臓が刺激され血行や代謝を促進し、身体的な心地よさにつながる。何の苦しみや痛みも伴わずに快楽を手にすることは、教養の本来の姿ではないと思うがどうだろう。ある著名なダンサーに聞いた話では、大企業の管理職対象にワークショップをおこなったところ、その受講者たちがまるで鎧のようにかたくなな肉体をしていて驚いたという。厳しい競争を勝ち抜くために、身体が鎧われていくだろうことは想像に難くない。人間の肉体は驚くほど環境に素直に反応するのである。程度の差こそあれこうした病理は現代人ならば誰もが抱えている。それを相対化する装置として「演劇的知」が機能する可能性は大きいはずだ。つまり、鎧われた本人にその肉体を「味わう」視点を与えるということである。ワークショップの狙いはそこにあると言っていい。もはや現代人にとって自分の身体は学ぶ対象となっていることを私たちは認識すべきだと思う。従来の教育システムではこの欠如を補填できないのである。

コラム一覧へ