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演劇知の生涯教育

演劇の定義

安田雅弘(2000:演劇人)

まず、「手つなぎ歌」と呼ばれる、こんなトレーニングの話から始めたい。

トレーニング1

何人かの人の前で、任意に選ばれた二人が手をつなぎ、同時に別の歌をうたって、相手の歌おうとする気持ちをさえぎろうとする。めりはりをつけるために、勝ち負けをつける。さえぎられた方が負けである。
終了したところで、「果してこれは演劇と呼べるのかどうか」について議論をする。

歌は何でもいい。もちろんうまい必要はなく、極端に言えば叫び声で構わない。歌おう、声を出そうという気持ちが切れてしまったら負けである。 次に、今のできごとを演劇と呼んでいいのかどうか、参加者全体で考える。呼べるとしたらその根拠は何か。呼べないとしたらそれはどういうところなのか。 「非演劇」、つまりこれは演劇ではないという立場には以下のような意見があるかもしれない。

「ストーリーがない。だから演劇とは呼べない。」「テーマがないではないか。」「勝ち負けをつけるのは演劇ではない。」「演劇というより、演芸だと思う。笑えるが、感動できない。」「同じことを繰り返せない。だから違う。」「演じる役がないので演劇とは呼べない。」など…

「非演劇」の意見の一つ一つは、逆の意味で、その人にとっての演劇の定義となっている。ためしに全てをまとめてみると、「演劇とは、ストーリーとテーマを備え、勝ち負けはなく、笑いとは違った感動があり、演じる役があって繰り返せるものである」。 刺激的ではないが、ひょっとすると、今の日本では常識的な演劇の定義といえるかもしれない。

一方、演劇なのではないかという人からは次のような意見が出ることが考えられる。「見て楽しめた。だから演劇だ。」
「歌っている時、普段とは違う人になっているように見えた。あれは何か役になっているのと変わらないのではないか。」「対決している緊張感は演劇的だと思う。」「見ている人がいなければ、不気味な光景のはず、でもそう見えなかったのだから、演劇と呼んで構わないと思う。」

あるいは、「演劇だと感じた瞬間と、そうではないと感じた時間があった」というような、中間的な意見も出るかもしれない。

いずれも「非演劇」と同様、それぞれの演劇観につながる。 私は以下の三つの条件が満たされていれば、それを演劇と呼んでもいいのではないかと考えている。

一、ルールがある。
二、集中がある。
三、観客が想定されている。

説明の順番は逆になるが、見ている人と見られる者の間に発生するもの、あるいは、見ている人がいることによって、見られる者の中、あるいはその間に発生するものが演劇ではないか。これが「三」にあたる。観客がいればそれでいいというのではなく、見られている者の中やその間にルールがあること、これが「一」。そしてそのルールに沿って何らかの集中がおこなわれていることが「二」となる。 手をつなぎ、相手の気持ちをさえぎるように歌うというルールがある。それに集中している人たちがいて、見ている人がいる。その状態を満たしていれば、私にとって「手つなぎ歌」は演劇である。

さらにこの定義に従えば、たとえばワールドカップサッカーやプロ野球などのプロスポーツはすべて演劇だいうことになる。もっとも前の三つの条件に「同じことが繰り返しおこなえる」という条件(これは厳密に考えてゆくと程度の問題でしかない。生身の人間が全く同じことを繰り返しおこなえるわけがないからである。が、ここでは単純化して考えることにする)、あるいは「勝敗を目的としない」という条件を加えると、スポーツ全般はその範疇から外れることになる。このトレーニングも演劇ではないということになるだろう。

ほかにも、そば屋の店先でおこなわれるそば作りの実演や、棟上げの現場に出くわすと、私は思わず眺めてしまう。彼らは厳密なルールに従って作業に集中している。それを見ている者がいる。しかも繰り返しおこなうこともできる。もとより目的は勝敗ではない。これも演劇ではないかと考えられる。ただ、料金を払う気になるのかと聞かれると少々疑わしい。多くの人が見て面白いと感じるかどうかもわからない。

「料金が取れる」「不特定多数の支持が期待できる」という条件を加えると演劇の定義はさらに限られたものになるだろう。

もちろん正解はない。自分で出した結論が正解である。そして正解はたくさんあっていいと思う。芸術がゆたかであるということは、そうした結論のバリエーションが豊富であることにほかならない。つまりこの作業を通じて私たちは自分にとっての演劇を定義していることになる。

 

少々突飛とも思えるトレーニングの紹介から始めたのは、このような、「演劇とは何か」「私たちは演劇をどう定義すべきか」といった議論や実践が、何よりも演劇の周辺にほとんど存在していないこと、あるいはしていたとしても、一般社会にそうした演劇観の広がりが敷衍されていないことを端的に説明したかったからである。こうした議論の不在状態は演劇にまつわる教養(それをここでは「演劇的知」と呼んで行こうと思う)の軽視である。社会にとって大きな損失であるのみならず、当の演劇人が、この社会に演劇人として存在する基盤を放棄することにも等しい事態なのではないかと私は懸念を抱いている。

私たちが演劇に携わっているのは、何も意地やなりゆきからばかりでなく、その表現のあり方や結果、つまり演劇そのものに大きなゆたかさと魅力を感じているからではないだろうか。私たちがすでに手に入れ、同時に手に入れつつある、その魅力の実体を言葉にする能力や責任は、他の誰でもなく、演劇に関わっている私たち自身にあると思う。

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