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コラム

演劇知の生涯教育

「生涯教育」と「生涯学習」

安田雅弘(2000:演劇人)

演劇の生涯教育について述べる前に、「生涯教育」という言葉について考えたい。この用語については種々の議論がある。すなわち「生涯教育」と「生涯学習」のどちらが妥当かという問題である。

一般には教育という言葉には強制的なニュアンスがあり、教えるというよりは自ら学ぶ、すなわち学習者の立場に立つという意味を含めて「生涯学習」という用語を用いることが多いようだ。

今回参考書とした、黒沢惟昭氏著の「現代日本の生涯学習と市民社会」(「苦悩する先進国の生涯学習」社会評論社所収)の中に用語区別の考え方が紹介されている。辻功氏の所説である。

「学習者が生涯にわたって不断に新しい知識や経験を吸収し、よりよく社会に適応したり新しい社会を創出しようとしている努力の過程に注目して、評価したり問題提起などをしようとする場合には生涯学習という用語が適切であろう」とし、一方「市民のそうした努力が一層容易に、一層効果的に結実するように、機会を提供したり、環境条件を整備、充実したり、情報を送ったり、相談にのったりするなどの『援助活動』をポイントにおくならば、生涯教育という言葉の方がむしろ適切になろう」と氏は述べている。

孔子の有名な言葉に、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳に順う。七十にして心の欲する所に従えども矩[のり]を踰[こ]えず」というものがあり、また江戸後期の儒者、佐藤一斎に「少[わか]くして学べば即ち壮にして為す有り。壮にして学べば即ち老いて衰えず。老いて学べば即ち死して朽ちず」という言葉がある。生涯教育(学習)関連の文献にはよく出て来る。

氏はその言葉に触れながらさらにこう続ける。「生涯学習ということで学習者の主体性、自発性などを強調するあまり、学習の機会提供、条件の整備・充実といった公教育としての義務や責任が見落とされてはならないということである。この視点が欠落してしまうと、せっかくの今日の生涯教育学習論がその昔孔子や佐藤一斎らが説いた個人的修養論としての生涯教育論、生涯学習論に戻ってしまうからである」。 また、麻生誠氏の所説(「生涯教育論・生涯教育の成立をめざして」旺文社所収)も示唆的である。

「学習」とは「経験による行動の変容」であり、「それは当人が意識していてもいなくても、さらに変容が必ずしも進歩ではなくても、とにかく一定の経験をする前とした後とで行動のしかたにある持続的な変化が生ずれば学習なのである」。したがって「学習は本質的に自発的活動であるが、それはしばしば気紛れで一貫せず、またせまい範囲に限定されがちで利己主義的性格を帯びている」。 そこで「学習の教育的価値による指導としての教育が登場するのである」。「教育はまさしく学習の指導であり指導された学習なのである」。「生涯教育は、生涯学習ではなく生涯教育であらねばならない」。「この場合の生涯教育には自己教育もふくまれるのである」。

公教育の視点から演劇的知について考えようとする場合、「生涯教育」という言葉が適切なように思われる。

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