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コラム

演劇知の生涯教育

演劇の生涯教育の現状

安田雅弘(2000:演劇人)

演劇の生涯教育の現状はどうであろうか。小中学校で「演劇」は全く触れられていない。「国語」の一部として扱われたり、学芸会の要素やテレビや鑑賞会を通じて、明確な目的意識のないまま、漠然とその教養に親しんでいるのが実状と言えるだろう。私は現状で演劇を「国語」で扱うことには反対である。それは演劇的知というものが一部重複する部分はあるにせよ、教科としての「国語」的な教養とはほとんど別種のものではないかと考えるためで、むしろ「体育」や「技術家庭科」の教育課程にこそ演劇的知に近い要素がひそんでいる可能性さえあり、それは音楽を「数学」で扱うに等しい行為ではないかと疑っているからだ。もちろん教育者サイドに演劇的知についての知識や理解があればその限りではないと思うが。

現在ではほとんど義務教育化している高校でも、選択科目や専門科を設ける学校が出てきているとはいえ、まだきわめて少数であり、例外的である。大学では国立大学に「舞台芸術科」というようなものは存在しておらず、それは国立劇場に専属劇団が存在していないこととも一脈相通ずる観がある。

民間の専門学校・養成所、私立の高校・大学には専門教育を行なう環境が整いつつあり、また高校演劇と呼ばれるクラブ活動は活発に行われているが、卒業してプロになるといった状況が明瞭に存在しているわけではない。そもそも「演劇のプロ」の定義が「メシが食える」「長くやっている」というような雑駁な範疇をさほどこえていない気がする。つまりプロの資格要件というものはない。あっても極めて曖昧である。資格要件を整備すべきかどうかについても、「誰が」「どのように」という点で、大いに議論が分かれるところだと思う。また、大学教育という点でいえば、日本の大学はストレート組(高校卒業後、社会人経験を持たずに大学に入学する者)が圧倒的に多く、施設や教授陣、管理体制などの環境として、演劇人の生涯教育を担う機能はまだしばらくは期待できそうにない。

専門的な演劇人が公演の準備や研究目的でつどうことのできる情報センターといったものも、ないわけではないが、およそ十分であるとは言いがたい。例えば一定の活動をしてきた演劇人が自らをオーバーホールする環境があるのかと言えば、劇団まかせになっているのが実状である。費用的なことを考えると、実際には不可能に近いのではないだろうか。日本型の生涯教育では欧米先進諸国に比して、企業内教育の比重が今まで極めて高かった。それは学歴主義的な価値観と終身雇用的な社会を背景としている。専門学校や養成所を卒業し、その後の教育は劇団で一括して行なうという今までのシステムは、その意味で、きわめて日本的と言えるかもしれない。

しかし、日本社会もより資格主義的で、契約雇用的な欧米型に徐々にではあるが移行しつつあり、企業内教育も姿を変えつつある。同様に演劇界を取り巻く環境もかつてのような、少数の大劇団中心の状態から、より多数で小規模な劇団を中心としたものに移行しつつあり、専門教育を各劇団が担うのが果たして合理的・効率的と言えるのかどうかは疑問である。つまり演劇人の生涯教育ということになると、状況は、はなはだ心もとなく、明確なビジョンに乏しいと言うことができると思う。

一般教育となるとまだ端緒についたばかりではないだろうか。先述の通り、義務教育、高等教育で触れることのできる演劇的教養というものはまだごく限られたものであり、劇場での鑑賞機会が今までは主要な一般教育の場であったと考えることができる。現在でもその状況はほとんど変わっていない。

演劇的教養を高める上で作品鑑賞が非常に重要な機会であることに異論はない。が、それだけしかないことには大きな疑問を感じる。演劇的知とは体験知であるとも考えられるからだ。音楽や美術やスポーツと同じように、体験によってしか才能は発見されず、また、体験を通じて専門家の芸やスキルが改めて認識される種類の教養と思われるからである。ほんのちょっとした体験だけで演劇を見つめる視線は劇的に変化する。わずかな年数でしかないが、一般市民とワークショップで接していると、そのような話をよく耳にする。

民間のカルチャー・センターや公共館による演劇ワークショップというものは年々増加してきている。しかし、そこで何が体験されているのかという実状はよくわからない。演劇ワークショップで何が体験され、語られるべきなのかといった議論は演劇界の総意としては存在せず、個別の講師もしくは事業担当者に一任されている。そしておそらくそれぞれの現場で模索状態が続いていると想像される。

演劇界の総意というようなものは必要ないという考え方もあるだろう。が、何が演劇ワークショップの目的であるのかということがはっきりしない限り、公教育としてのシステムは一向に構築されないだろうし、環境は改善されないのではないか。卑近な例で申し訳ないが、私の体験でこういう事例があった。高校演劇の指導者にワークショップを行ないたいという公共館からの依頼である。参加者である先生方の都合を考慮して土曜日、日曜日という曜日の設定をした。いわば休日出勤である。しかし、実際には研修としての扱いを受けず、参加者は参加費も含め全ての費用を自前で負担せざるを得なかった。

高校演劇は関係者の努力もあって活況を呈していると言っていいと思うが、さらなるレベルアップを図るために、指導者である先生方の教養を高めることは有効だと考えられる。そのための企画であった。しかし、演劇が好きな者が勝手に集まっていることと制度的には何ら変わらない状況の中でワークショップは実施せざるを得なかった。決して高い費用ではなかったと思うが、それを参加者が自弁しなければならなかったり、代休が認められなかったりといった事態は、演劇ワークショップに対して社会的な必要性が認知されていないことに大きな原因があると思われる。公教育としての制度を整備する上で、演劇ワークショップの目的は明確化する必要があり、その主体は演劇界が担うほかないと思う。

体験知であるという性格上見落されがちだが、出版や通信による教育もほとんど行なわれていない。戯曲の出版は従来行われているが、たとえば古典戯曲の内容や、上演する上でのポイントを簡易に解説した文献やビデオなどは皆無である。またもっと前の段階で、演劇を作りたい、関わりたいと感じた人々が、どのようなトレーニングや活動から始めればいいのか、といった解説書もまことに乏しい。どうしても演劇は気軽に始められるものではないといった残念な誤解が世間の常識として通用してしまう結果になる。

いきおい演劇を作りたいと発意した人々は我流で集団化し、創作をおこなうという傾向が強まる。それだけならまだしも、結果としてそうした傾向は過去の教養の無視・軽視という姿勢を醸成するのではないかと恐れる。私は現代日本の新作至上主義とも見える現象の背後には、新作を重視するという積極的で明確な視点よりも、古典作品への教養の欠如という消極的な貧しさが横たわっているような気がしている。

公教育の視点から演劇的知について考えようとする場合、「生涯教育」という言葉が適切なように思われる。

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