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コラム

演劇知の生涯教育

演劇的知とは何か

安田雅弘(2000:演劇人)

簡単ではあるが、現状に対する認識を述べた。演劇的教養の生涯教育ということを考えた場合、問題は広範であり、多岐に渡っている。一挙に改善の方向に解決することは不可能であり、またその方法の一々についてここで述べることは私の任ではない。このような議論は、演劇人の資格要件の所で述べたように、どうしても「誰が」「どのように」という議論が真っ先に出てくる。しかし、私は生涯教育の必要性を社会一般に訴える上では、演劇的知に関する演劇界の総意を明らかにすることの方が急務であるように思われる。すなわち演劇的知とは「何か」ということを演劇に関わる人々が改めて考え、できうる限りの方法でそれを表明していくことが重要ではないかと思うのだ。 この稿では、演劇的知とは「何か」ということについて考えていこうと思う。 まず、私たちが「滑舌」と呼んでいる訓練方法の話から始める。

トレーニング2

「書きかけ書こうか、かけっこか買い食いか、危険危険、今日が期限だ書きかけ書こう」という文章を口に出して読む際に、どこに注意するべきか。実際に声を出して考えてみる。

 

これは私たちが俳優訓練のごく初期におこなうトレーニングである。一般には早口言葉として知られている。ことさらに早く読む必要はない。テンポをコントロールできればいいのである。しかし、ここではテンポの問題は措いて、日本語の発音の問題として考える。

現代日本語の標準語は歴史が浅い。おおむね東京の中流階級の使う東京方言に基づいて明治政府が定めたものだという。

その標準語を口に出す上での基準、つまり発音上の標準というものは義務教育で教育されているのだろうか。少なくとも私の周囲にその経験を持っている者はいない。といって難しいものでもない。俳優をこころざす以上、標準語の発音についての知識は必要と思われるので、私たちは俳優訓練のごく初期にこのトレーニングをおこなっている。細かいルールはさまざまにあるものの、おおまかに言って三つの点に注意すれば標準語は正確に発音できる。

すなわち、
一、アクセント
二、無声音
三、鼻濁音
である。

アクセントとは広辞苑によれば、「それぞれの語について定まっている、特定の音節の特に際立った高まりや強まり。近世西洋語の多くは強弱アクセントを有し、日本語は一般に高低アクセントを有する」とある。

実際に演劇のせりふとして語られる場合、俳優は、高低だけでなく、強弱、長短などのアクセントを駆使するわけだが、そのような専門的なものではなく、一般的(=標準的)なアクセントで考えると、たとえば「書きかけ書こうか」の部分では、「きかけ」と「こ」にアクセントがある。その部分はほかの部分よりも高く読む。さらに「け」の後の「か」はそのままの高さでも、下げてもいい。「こ」の後の「うか」は下げる。 無声音とは、「声帯の振動を伴わずに発せられる音。〔p〕〔t〕〔k〕〔f〕〔s〕など」である(広辞苑)。ここでは「書きかけ」の「き」がそれに当たる。ためしに「き」を有声音で出してみると、どこかぎこちない感じがする。 次が鼻濁音で、「呼気を鼻に抜いて発音するガ行音。東京その他では語頭以外のガ行音や助詞の『が』『がな』などは鼻濁音で発音するが、この音韻の存在しない地方も多い」ものである(広辞苑)。「かいぐい」の「ぐ」や「今日が」の「が」、また「期限」の「げ」がそれに当たる。

いま、一番正確な日本語を喋るのはNHKのアナウンサーではないかと思う。彼らの日本語は相当な研究と教育・訓練に裏打ちされている。一方で、一番美しい日本語を喋るのは一体誰であるべきなのか。実態はどうであれ、それは俳優以外にいないのではないだろうか。演劇の公教育に力を入れている国や地域ではその役割がおおむね社会的にもまた俳優の自覚としても了解されているように見受けられる。演劇的知が社会に行き渡るというのは一つにはこういうことである。「演劇」を「国語」の範疇で教育するというのであればせめて標準語の発音くらいは義務教育のカリキュラムに組み込まれるべきだと思う。

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