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コラム

演劇知の生涯教育

「空間的」美学

安田雅弘(2000:演劇人)

「空間的」美学は「演出的」美学と置き換えてもいい。社会一般にあまり理解されていない演出の仕事について語ることがあるいは「空間的」美学を説明することになるのかもしれない。

演出とは舞台上の全てのことがらを必然化する作業であると私は考える。舞台を構成するさまざまな要素には、はじめから必然的なものなど何一つない。上演する芝居のコンセプトにしても、出演者・スタッフにしても、公演会場・美術・照明・音響・衣裳のプランといったものも、言ってみればたまたまそうなったしまったものばかりである。上演するテキストにしても、さらに言えばそれが日本語で語られること、私たちが日本人として存在していること自体が偶然の産物である。 必然化とは、そうした偶然的な諸要素に意味をつけていく、または意味を見出す作業である。すなわち人間関係、時代、場所、そこにおける人間の行動に意味を付加したり、見出す作業である。その結果として、私たちが人生の中で感じ、触れるある種類の緊張感を、特定な意図のもとに純粋に取り出し、それを観客の五感に訴える、つまり生理的な意味の集合体にすることが演出という仕事と言えるだろう。 演劇とは空間にある一定の美的秩序を与えることである。その美的秩序を打ち立て、その秩序のもとに舞台上の諸要素がどうあるべきかを総合的に判断するのが演出という作業である。それが現代演劇における演出のとらえ方と言っていい。それゆえ現代演劇においては創作の主体を演出家ととらえる傾向が強い。 もう少し具体的に言えば、どのような緊張感を実現したいのかという基本の計画、それに基づくテキスト(「言語的」緊張感)の決定。並行して、俳優が存在する世界をどのように設定するのかというエリアの決定。同様に、そのエリアで俳優がどのようなルールのもとに動き、そのテキストを喋ることも含め表出するのかという身体の決定。それに付随する舞台美術、照明、音響、衣裳といった諸要素の関わり方の決定、ということになるだろうか。

今述べた、身体やエリアという視点はあまりなじみがないかもしれない。それは舞台上での身体のありようや、舞台上のエリアについて意味を付加したり見出そうとする視点で、わが国の舞台は古来よりこの感覚を世界にも例が無いほど研ぎ澄ましてきた歴史がある。

明治になるまでわが国では、リアリズム演劇のように生身の人間が舞台に上がるという考え方は存在しなかった。それは宗教観の反映とも言われる。肉体はあくまでも魂という内実が宿るための器にすぎないという考え方があったからだという。つまり舞台上で自分でない人格なりモノ格(演じられる対象は必ずしも人間ばかりではないのだから)を帯びようとする際、現実の人間とは違った所作というものが必要になったのだと考えられている。能楽師・狂言師や歌舞伎俳優の独特の身体所作を思い出していただければいいと思う。

舞台の形状に関しても、わが国の伝統的な舞台芸術は西欧風の左右対称なプロセニアム舞台とは違い、橋掛や花道が設けられ、演じ手が進む方向や立つ位置には厳密な約束事が決められている。約束事とはこの場合、長い年月の間に蓄積されたさまざまな意味の集大成と考えることができる。

現代の日本で演劇を作ろうとした場合、旧来からあるこうした考え方を踏襲する必要はないと思う。ただ、日本の舞台芸術が世界に誇ることのできる感覚があるとすれば、それは身体やエリアに対する以上のような考え方であることは教養として常識化していてもいいだろう。

このように舞台上のおよそあらゆることに意味を見出していく作業を演出と呼ぶ場合、その作業の目的はどのように考えればいいのであろうか。 舞台という虚構の場に、任意の美的秩序を創作することで、私たちが生活する世界の秩序というものを相対化すること。そのことに目的があるのではないだろうか。相対化の作業によって、逆に私たちの存在の意味や、社会の仕組や世界のありようが再認識されるという効用が考えられる。つまり私たちがどのような世界に生き、どのような社会に住み、どのような人生を送っているのか、その意味を考えたり発見したりする上で、演劇的知はきわめて有効に作用すると私は考える。 はじめの演劇の定義に戻れば、一の「ルール」に当るものは「美的秩序」ということになるだろう。二の「集中」が「緊張感」。そして三の「観客が想定されている」は生涯教育による幅広い観客層の育成ということになると思う。 ユネスコで生涯教育についての提案を行なった前述のポール・ラングランの言葉でこの文章を閉じることにする(波多野完治訳 「生涯教育入門」大日本社会教育連合会)。ラングランはフランスのレジスタンス運動に参加し、そこで生涯教育の必要性を発想したという。その過程も誠に興味深いのだが、それを紹介する紙幅はない。

「生きるということは、人間にとって、万人にとって、つねに挑戦の連続を意味するものだった。老衰や疾病、親愛なる人の喪失…(中略)…相続く諸世代を巻き込まずにはおかなかった戦争や革命、誕生する子ども、生命の神秘や宇宙の謎、この世の生の意味、見つけねばならぬ職業や金銭、払わねばならない税金、競争、宗教的及び政治的な掛かり合い、隷属と自由、夢と現実、等々。 「これらの挑戦は、…(中略)…依然として現存しており、その強さや切実さや圧力をなんら失っていない。

「今日では、成人であること、あるいはむしろ成人になることは、どんな労作であれ、科学的または芸術的な性格の労作の仕上げが要するのと同じような情熱と持続力と勤勉さを必要とする。この企てに成功するには、それが必要であるとの意識に依拠するのでなくてはならない。これからは、誰もが代理者として哲学者や詩人や市民であるわけにはいかないのである。」

※参考文献
 「生涯学習を考える」 (財)兵庫県長寿社会研究機構編  晃洋書房
 「生涯学習の創造」 香川正弘・宮坂広作 編著  ミネルヴァ書房

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