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劇評/Performance Reviews

「invitation THEATRE」連載◆第14回  小森 収

芸術新潮 (2003.04)

「山の手メソッドが達した洗練の極み」

山の手事情社の「狭夜衣鴛鴦剣翅」はこの劇団が到達点を示した、素晴らしい成果として記憶されるべき舞台だろう。山の手事情社独特の様式的な役者の動きと、照明から衣裳から装置から、果ては舞台上の人間をさえも、オブジェの一要素としてレイアウトする、その構成力で、力強い物語性を持つ並木宗輔の浄瑠璃台本を、二十一世紀の舞台に甦らせることに成功している。

南北朝のころ。新田義貞が討ち死にし、義貞が死の直前に託した錦の袋と、新田家宝鬼丸の太刀とをめぐって、陰謀が渦巻く。兄・足利尊氏への謀反を企む直義は、新田家の家臣の塩谷判官に、鬼丸の太刀を返すかわりに、義貞の愛人勾当内侍を差し出させようとする。塩谷は錦の袋をも要求するが、それを手に入れている足利の執権・高師直は、塩谷の妻顔世に横恋慕する。塩谷は好機到来とばかりに、勾当内侍を刺客として直義のもとへ送り込もうと図る。だが、謀は露見し、その上、鬼丸の太刀は行方不明となる。

並木宗輔の台本は、古典文学の専門家の間でも、推理小説的という言葉が使われることがあるほど、構成に留意し、ひねりの効いたプロットを用意している。そのクライマックスとも言えるのが師直館の段で、男女それぞれの登場人物が、各人異なった思惑を胸に秘め、師直の閨に忍んでくる。その思惑のいくつかは、観客にも隠されている(このあたりを推理小説的と呼んでいるのだろう)。

山の手事情社の舞台においても、師直館の段がもっとも素晴らしい。舞台は全編赤い光でレイアウトされ、それも真紅ではなく、ほの暗いオレンジ色を基調としている。権力闘争も、私的葛藤の中に現れ、そこで表現される。まこと紅灯と呼ぶに相応しい。衣裳、役者ともに、全体の中での一要素として計算しつくされている。床にくず折れた役者が、すっと立ち上がる所作は、人形の動きを意識しているのだろうが、そのスピードとキレの良さに、山の手メソッドの面目が現れる。ときとして字幕のスクリーンにもなる紗幕越しに演じられる、この紅灯の下での陰謀劇は、アングラ演劇がついに洗練というものを獲得したことを告げている。かくも洗練された視覚的イメージを、舞台上に展開できるのは、ほかに飴屋法水くらいのものだろう。

これだけの評価をした上で、以下のことをつけ加えておきたい。山の手事情社は、ある強制的な演技パターンを多用する。また、今回の舞台では、役者のそれぞれの個性を表に現さないことで、ある種の効果をあげた。これらのことは、現代人が現代の表現を獲得するために、安田雅弘が苦心して選んだ道であろう。しかし、その根底には、個性というものが抑圧的にしか表出されないという諦観があるのではないか。そして、それは果たして諦めてしまうべきことなのか。実際、師直館の段の素晴らしさは、そこに倉品淳子、内藤千恵子、大久保美知子といった実力のある役者が集まり、演技力という個性を発揮したからではないのか。山の手事情社の苦闘をつぶさに観てきて、今回の達成に心から拍手を送りつつ、やはり、その疑問は残る。

とはいえ、今公演の最大の欠点は、ステージ数が少ないことだろう。白昼の道中劇「平成・近松・反魂香」と、紅灯の陰謀劇「狭夜衣鴛鴦剣翅」は、二本立て上演が望ましい。両作品は、時を置かず再演してほしい。

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