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コラム

安田雅弘演出ノート

印象 タイタス・アンドロニカス/1999.5

安田雅弘(1999.5)

型について

今回、舞台上の俳優は「イライラ棒」という型で動いている。「イライラ棒」というのは電流が流れる二本の平行して走る金属の棒の間に、別の電流を帯びた棒を差し込んで動かすゲームである。中に差し込む棒のと二本の棒の間隔はあまり広くなく、慎重に動かさないと差し込んだ棒は平行棒に接触しショートしてしまい、ゲームは終わる。また逆に慎重すぎてもいけない。時間に制限があり、その間に一定のルートを動かさないと時間切れでやはりゲームオーバーとなる。

私たちが型というものに取り組んで三年になる。日本で舞台芸術を考えるとき、どういうかたちであれ型というものとは明確な距離を取らざるをえない。能・狂言や歌舞伎を引き合いに出すまでもなく、明治になるまでわが国では現実の人間が舞台に上がるという考え方は存在しなかった。それは宗教観の反映とも言われる。肉体はあくまでも魂という内実が宿るための器にすぎないという考え方があったからだという。つまり舞台上で自分でない人格なりモノ格(演じられる対象は必ずしも人間ばかりではないのだから)を帯びようとする際、現実の人間とは違った所作というものが必要になったのだと考えられている。

私が感じるのは、歴史的に連綿としてあるこの舞台上の肉体(あるいは型)についての感覚はどんなに欧化した文明の中で生きていても、依然として日本人の中には強く脈打っているのではないかということである。たとえば、アトム、ドラえもん、ガンダム、エヴァンゲリオンと世界に誇る日本アニメのヒーローはみなロボットだということ。日本人は現実の人間ではないものに強い親しみを持つことができる稀有な民族なのではないかと思う。

現代演劇の舞台に型を導入する必然性について、またその可能性について私たちは相当量の議論と実験を行ない、また現在も行なっている。今のところその中で出てきた一つの有望な方法が「イライラ棒」ということになる。◆相手の目と目の間に針穴の様なものがあり、そこに通すように喋る。◆全身の動く道が決まっている。◆安定的に不安定なポーズを維持する。◆ヒリヒリとした感じを出す。ごく一部だが、こういったルールを日々確認しながら厳密にしていく作業である。私は型をその時代の潜在的な肉体の姿と定義する。「イライラ棒」に取り組んでいるとその思いを強くする。周囲の勘気に触れないように気を遣いつつ、しかし忙しく何かに追われている。それはまさしく現代人である我々の姿ではないかと感じるわけだ。日本の舞台芸術が世界に誇れる感覚があるとすれば、それは肉体に対するそうした考え方であると私は考えている。

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