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コラム

安田雅弘演出ノート

平成・近松・反魂香/1999.12

安田雅弘(1999.12)

今回の原作は『傾城反魂香』です。傾城(けいせい)とは、女郎のこと、反魂香(はんごんこう)とは、たくと死んだ人が現われるといわれる香のことです。1708年、近松門左衛門56歳の時に竹本座に書かれたと言われています。竹本座は竹本義太夫の興した文楽の一座です。

私は現代日本演劇を様式化したいと考えています。様式化とは「物の自然的・現実的な形態を変形し、ある様式上の特性を表すように、抽象化・模様化などすること」と広辞苑にあります。現代の日本人は欧米の価値観と伝統的な日本の価値観の曖昧に混合した中で、それに何とか折り合いをつけながら生活しています。畳とフローリングのある家で、クリスマスと正月を迎えるように。それ自体はもちろんいいことでも悪いことでもありません。その状態の中で、芸術家の仕事はそれを一つのスタイルに昇華することだと考えるのです。同時代の他の文化圏にいる人々から(それはたとえば私たちがブロードウェーミュージカルに欧米を見るように)、また違う時代の人々から(能や歌舞伎に室町時代や江戸時代を見るように)、現代の日本というものが見えてくるスタイルを作り出したいということです。

前回の『印象 タイタス・アンドロニカス』では、シェイクスピアの描いたローマ時代のお芝居を日本のいろり端でおこなうことによってそのスタイルに近づこうとしました。今回は私たちの中にある欧米の生活環境の中に近松の言葉を置くことでそのスタイルに近づくことができるのではないかと考えています。作っていて思うのは、私たちと江戸時代の生活とは随分大きな隔たりがあるということです。ほとんど外国といってもいいくらいです。「美しくキレる」というのが今回近松物をやる上で一番のポイントです。この部分では接点があるのではないか。「キレる」とは「我慢が限界に達し、理性的な対応ができなくなること」です。日常生活を送る上で守らなければならない最低の緊張感が切れ、結果として周囲が思いもよらない大胆な行動に出てしまう。江戸時代はそういう意味では窮屈です。我慢の限界を描くのには適しているとも言えます。私たちには想像するのが困難なほどの苦しみであったりもします。そういう強い気持が奇跡的なできごとに飛躍するというのが今回の作品の面白さで、なかなか現代の作家には書けない部分です。たとえば、化けて出てまで好きな人と添いたいという気持や、画家として師匠に認められたいという気持が厚い石を透かしてしまうというようなことです。現代には起こり得ないことですが、そうした現象や人物は魅力的だと思います。

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