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コラム

安田雅弘演出ノート

印象 青い鳥/2000.11

安田雅弘(2001.1)

なぜ『青い鳥』なのか

『青い鳥』は戯曲の形をとりつつ、童話として書かれている。チルチル、ミチルという子供を主人公とし、ともに旅をするキャラクターも「犬」や「猫」、「パン」や「火」、それに「光」といった生活に身近なものが選ばれ、複数の翻訳から推察する限り、やさしい言葉づかいで書かれている。しかし、すぐれた童話というものはえてして大きな寓意をはらんでおり、この作品も例外ではない。子供向けのお話という枠をはるかに超えた人間や社会に対する深い考察が作品の根底に横たわっているように思われる。そうした世界観にどのように近づけるのか、それが今回の私の作業であった。

作品はいくつかの幕にわかれ、その幕ごとに子供たちはさまざまな国を旅する。まず「思い出の国」では、すでに亡くなった「祖父母」に出会う。過去、死者との対話である。出会いはすなわち対話を意味する。次の「夜の御殿」では闇の世界を代表する「夜」を案内人に、「幽霊」「病気」「戦争」「夢」と出会う。恐怖や希望の対象となる、つまり心の闇を構成する材料となるものたちとの対話がある。「森」では「ポプラ」「ツタ」「カシワ」「牛」「豚」「狼」「雄鶏」など動植物との対決にも似た、自然との対話が待っている。さまざまな位相の幸福が登場する「幸福の花園」では、子供たちは幸福という形而上の概念と向き合うことになる。そして最後の「未来の王国」で、まだ生まれる前の子供たち、つまり来るべき未来、子孫と言葉を交わす。旅を終えた子供たちは、最終幕でようやく両親や近所のおばさんと出会う。最後に初めて現実の人間との会話がおこなわれる。つまり、それまでの対話はすべて現実社会ではおこりえないものばかりだったのだ、と気がつかせる構造をこの戯曲は持っている。もう少しうがって考えると、私たちの現実における会話は上記のさまざまな国との対話を前提とすべきではないかというメーテルリンクの主張が読み取れる。

五木寛之は『青い鳥のゆくえ』(角川文庫)という著書の中で、「青い鳥」を「希望」や「幸福」の象徴ととらえた上で、この作品には「人間にはあらかじめ用意されて手渡されるようなレディーメイドの青い鳥などというものはない」、「そして青い鳥はかならず飛んで逃げていってしまう」、「けれども人間にはどうしても青い鳥がひつようなんだ」という三つことが語られていると述べている。私は今回「青い鳥」を「有効な幻想」という、もう少しドライな言葉でとらえ直してみることにした。単純に五年後でもいい、十年後でもいい、私たちの将来というものを考えたときに、どれくらい明確な、そしてそのために邁進できるビジョンを描くことができるだろうか? 能力のない政治家を批判することはたやすいが、実際に自分でその未来像を思い描こうとしたときに、大抵の人はふと立ち止まってしまうのが正直なところではないだろうか。

私は演劇を通じて現代日本が描きたいと思っている。選ぶテキスト(台本)が古典であろうと現代のものであろうとそれは変わらない。今回このテキストに取り組むに当たってはじめに感じたインスピレーションは、現代日本人が「途方に暮れている」というビジュアルであった。すなわちたのむに足る「有効な幻想」を持ち得ないでいる私たちのことである。その限りにおいて、『青い鳥』は現代的である。そこに描かれている内容は決して古くなっていない。

この「途方に暮れている」状況をより冷静に見つめるために、過去や未来に思いを馳せ、心の闇に目をこらし、自然をはじめとする周囲の環境に心を配り、幸福について哲学することが必要ではないか。私たちのまわりに本質的な議論やそれらを考える時間が不足していること、また何よりそうしたものがいかがわしくない形でより多くの人を巻き込んでいく環境や方法論が欠如していることは明らかではないだろうか。それでなくて、これほど物質的に不足ない状況にありながら、「有効な幻想」が築けないわけはない。この事態は、かなり危機的なのではないかと私は思う。

言葉にすれば以上のようなことを予感として、私はこの作品に取り組むことにしたのだと思う。舞台上のチルチル、ミチルは現代日本の「ウサギ小屋」と称される空間で、家の外に出ることなく各部屋を右往左往しながら、現実には起こり得ない対話を進めて行く。

演劇にできることは世界を見つめる視線を提供することだと考える。私には現代の日本人がこのように見えるのだとお考えいただきたい。

 

なぜ「型」なのか

舞台上の俳優の見なれない動きや声の出し方にとまどい、驚かれる方もいらっしゃると思う。私たちはあえてこのように見なれないものを作り出そうとしている。現代的な「型」である。

能・狂言、歌舞伎はわが国の演劇の大きな遺産である。それは私たちが室町や江戸という時代を考える際にその様式を思い浮かべる、という歴史的な深さばかりでなく、海外から日本を見た時にやはりそれらの様式に思いを致すという空間的な広がりをも併せ持っているところに大きな意味がある。

私たちはそのように現代を描き、日本を映すことのできる舞台上の様式を確立したいと考えている。様式化とは「物の自然的・現実的な形態を変形し、ある様式上の特性を表すように、抽象化・模様化などすること」と広辞苑にある。現代の日本人は欧米の価値観と伝統的な日本の価値観の曖昧に混合した中で、それに何とか折り合いをつけながら生活している。畳とフローリングのある家で、クリスマスと正月を迎えるように。それ自体はもちろんいいことでも悪いことでもない。その状態の中で、芸術家の仕事はそれを一つのスタイルに昇華することだと考える。三島由紀夫が指摘してるように「リアリズムの要求から発しながら、いつしか様式に固定してゆくという」特性が日本の芸能にはある。日本人には芸能をそのように扱う民族的特性がある。また、様式化という作業は自然発生的というより、世阿弥、三代目團十郎といった強烈な意志によって成立した側面が大きいと考えられる。様式化には明確な意図が必要であると考えられる。

伝統的な日本文化をふまえた上で、私たちの生活の大半を覆っている西欧文明との明確な距離が取れる演技様式、私たちはその「型」を《四畳半》と呼んでいる。四畳半は標準的な茶室の広さであると同時に、「ウサギ小屋」と称される現代日本の住環境をも象徴する。

周囲の勘気に触れないように気を遣いつつ、しかし忙しく何かに追われている。現代日本人のそうした生活感覚を、不安定なポーズと制限された動きによって身体化していきたいと考えている。同時に、その演技様式に伴う美術、衣裳、照明、音響など、総合的な演出様式も完成させたいと考えている。

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