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コラム

安田雅弘演出ノート

船弁慶/2003.9

安田雅弘(2003.9)

源義経は廃人として描かれているのではないか。

そんな着想からこの芝居は作られている。能の「船弁慶」で、義経は子方が 演じる。それは静御前との関係をなまなましく想像させないためであるとか、 静御前や平知盛、弁慶などの登場人物にさらに義経を加えて物語の焦点がぼけ るのを避けるためといった狙いがあるとされる。そういうわけで、そもそも義 経のせりふは少ない。題名からして「船弁慶」である。弁慶の物語であって義 経のものではない。それにしても、日本史上最大のヒーローである義経が発す ることばはわずかである。彼は一体どんな状態だったのだろうと想像せずには いられない。

私は、今回、能の現代化という作業にとりかかるにあたって、詞章(テキス ト)にはできるだけ忠実であろうときめた。どうしても意味のわからないとこ ろは、現代でもわかる言葉に置きかえたものの、文語の洗練に匹敵する現代語 が見つけられたとは思っていない。しかしその上で、このテキストを現代のも のとして読んでみようと思った。昔の古いお話ではなく、また伝統芸能の詞章 としてでもなく、現代作家が書いた台本として「船弁慶」をながめるとどうな るのか。

現代演劇で古典に材料を求めるというのはそういうことである。現代作家の 書いたものより劣っていると考えるならば、なにもわざわざ古い作品にとりく む必要などない。

すると廃人としての義経像が浮かびあがってくるのである。史実として考え ても、この時期以降の義経に、はかばかしい活躍はない。彼は平家を滅ぼすた めに登場すべくして登場した天才的な軍人だったのではないかと思えてくる。 つまり彼は、実は「修羅道」の中にしか人生を見つけることのできない人間 だったのではないか。彼がもっとも生き生きとしている場面を「平家物語」か らひろって挿入した。

わたしの大好きな能である「八島」もやはり修羅道に生きる義経が描かれて いる。平和な世の中ではぱっとしないが、ひとたび戦闘や戦乱になると輝く人 がいるのだと思う。義経は間違いなくその一人である。

そこまで考えてくると、この「船弁慶」は、平知盛の亡霊の出現によって修 羅道にもどろうとする義経を弁慶が妨害する話であるというふうに見えてく る。従来とはまったく違ったとらえ方が可能になる。

「船弁慶」とは、弁慶の挫折の物語である。修羅道世界、すなわち暴力が支 配する世界に屈服する人間の姿が描かれているのではないか。それは、イラク でもいいアフガンでもいい、パレスチナもそうだし北朝鮮もおそらくそうだ。 修羅道にどう立ち向かうのが正しいのか、明確な解答をもてないでいる私たち の姿にだぶってくる。

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