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劇評/Performance Reviews

傾城反魂香 ルーマニア公演 劇評「サムライの陰謀物語」

「サムライの陰謀物語」

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 日本の劇団「山の手事情社」は、ブカレストとシビウでは「タイタス・アンドロニカス」(2009年)、「オイディプス王」(2010年)で知られているが、今回3度目の公演「傾城反魂香」を行なった。前回までの公演を見た観客は、山の手事情社が今回も違う仕掛けを見せてくれるものと、3度目の公演 に注目していた。この劇団は、主宰の安田雅弘が学生の1984年に立ち上げ、身体表現の研究により特殊なメソッドを構築した。ニッポンの手触りを感じさせ る柔軟な動きは古典作品を再生させ、コンパクトにするのに成功している。この劇団の上演は常にエキサイティングで、専門家の興味をかきたて、観客には古典 の新しい解釈と東洋のエキゾティズムへの関心を呼び起こさせる。前回までの公演ではシェイクスピアとソフォクレスというわれわれになじみのある作者の作品 だったが、今回、演出家・安田雅弘は、日本では有名であるがルーマニアでは実際の上演よりも活字でしか知られていない近松門左衛門の作品を持ってきた。

 「傾城反魂香」は、1518年に始まる陰謀に満ちたサムライのお家騒動に、高級娼婦による姫の誘拐やサムライのハラキリ覚悟のシーンなどがから み、近松のお定まりである恋と義理の間で引き裂かれる心を描く。すべての騒動は絵師・狩野元信から起こる。元信は雇い主の姫と高級娼婦みやの2人の女に見初められ、言い寄られる。事件はまた登場人物たちの細かい身分制度から起こる。つまり階級の枠組みによって行動が決められているニッポンの厳格なヒエラル キーから生じる。これらのすべては、次々と味わわされる名古屋山三と不和伴左衛門の間の恋の鞘当て、偽り、嫉妬、また逆に、親切や同情といった人間の本性 で埋め尽くされている。観客は、予感と危険、夢と現実、この世とあの世のほのかな混交に迷わされる。もし我々も舞台の上でこの混交を見たら、現実の世界と 芸術の世界の交わりを表すこのタイトルの意味がよくわかるだろう。この作品は「死者も生者もみなどこにでも現れることができる」ことを教えてくれ、「傾城 反魂香」では、このことは、絵から抜け出て人々に追われる虎に象徴される。いくつかの物語をひもとく文脈の要素としてのおとぎ話ではなく、登場人物が観客 に向かって次は何が起こるかを告げる語りにつれてドラマティックな場面が続いていく。パントマイムの要素で二重写しになる瞬間ーー登場人物が見えない鈴の 紐を引くとすぐにはっきりとその音が聞こえるようなーーは、想像の向こう側にある世界が鮮やかに立ち現われてくる。コミカルな場面ではこの芝居の妙が完全に味わえる。

 演出家・安田雅弘は、前回までの公演でルーマニアの観客が彼の作法になじんだことを証明した。《四畳半》で繰り広げられる独特な柔軟な身体によ り、伝統的な要素を現代的な演出構造の中に投げ込んで、近松門左衛門の作品を再生させた。ニッポンの古典的な劇場を思わせる3枚の同じ大きさの大きなパネ ルは、必要に応じて、寺社の映像などの背景になる。あらゆる旅を表す跳躍は、伝統的な演技では厳格な動作のきまりがあるように、現代的なコレオグラフィー の替わりに使われる。鮮やかな色の着物はラインを形作り、ヘアスタイルはきわめて創造的である。関係性は独自の身体表現である独特な《四畳半》スタイルで 示唆されるだけで、ドラマティックな緊張感が舞台上の大きな動きから生み出されて広がっていくようである。対話者同士は決して目を合わさないが、動きは豊 かである。俳優の身体は自然な動きをせず、1人又は複数で、あるポーズから次のポーズへと様々なスナップショットをつなげたように移っていく。このような 動きで、観客の期待は常に揺さぶられ、騒動が次から次へと続いていく。「傾城反魂香」は再び観客を魅了した。

クリスティーナ・ルシェスキー(「アルト・アクト」誌 2011年6月22日)

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