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劇評/Performance Reviews

タイタス・アンドロニカス ルーマニア公演 劇評「舞台の文化、道化の真実 母性の引き裂かれた血」

舞台の文化、道化の真実
母性の引き裂かれた血

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今年の「シビウ国際演劇祭」で紹介された舞台でもっとも面白かった舞台の一つは、日本の「山の手事情社」によるシェイクスピアの『タイタス・アンド ロニカス』であった(ブカレストでも上演された)。これまでに「シビウ国際演劇祭」および「シェイクスピア・フェスティバル」に招待された舞台によって、 偉大なシェイクスピアのテキストと、日本の伝統演劇の技術(ヨーロッパ人とは違った身のこなし、侍の厳格さなど)のコンビネーションは、驚くほど素晴らしい結果をもたらすということがわかっている。

私たちにはあまり馴染みのない言語、その響き、儀式のようなゆっくりとした、威厳のある動き--時代と時間を経た厳しい訓練による--の堂々たる舞台空間は、良く知られた物語を飲み込み、これまでに演じられた舞台のレベルをさらに引き上げるものとなっている。

《山の手メソッド》とはどのようなものか

「現代演劇の詩」とも評される、《四畳半》スタイルで作られている「山の手事情社」の作品は、現代作品でも、古典作品でも(シェイクスピアの『夏の夜の夢』、ソフォクレスの『オイディプス王』、ゲーテの『ファウスト』などをいままでに上演している)、現代日本人の精神を、狭い空間と、最小限の動きで 表現しようとしている。《山の手メソッド》によって創り出された成果は、スイス、ドイツ、ポーランド、韓国そして今回はルーマニアにおいて大きな成功を収めた。この劇団の創設者であり芸術監督である安田雅弘(1962年生まれ)は、これまでに40以上の作品を演出してきている。シェイクスピアの作品は少なくない:『ロミオとジュリエット』『じゃじゃ馬ならし』『ハムレット』など。《山の手メソッド》とは、役者の対話の技術、および身体訓練を通じて、即興性 と機動性の鍛錬、別人格へのジャンプなどの能力を発展させるものである。この劇団の稽古で欠かせない物は、俳優の言葉と、動きの組み合わせで、現代の日本の役者のために特別に考え出された一種のダンスとも言える。これは、現代の日本の役者が忘れてしまった日本舞踊や能の仕舞の動きの繊細さを思い出させるも のに思える。一見単純に見える《歩行》訓練に、多くの時間やエネルギーが費やされ、僅かな感情のニュアンスの変化に合わせて俳優はポーズを変える。また、 日常的な感情や動きを、舞台上の様式に置き換えるため、台本や登場人物をめぐる解釈にも多くの稽古時間が割かれている。

現代日本人の精神性を様式化

《四畳半》は、日本の伝統芸能である能および歌舞伎の様式に学び、母音のアクセントと最小限の身体的動きを重視する。新しく、オリジナルな表現スタ イルを創造する努力と、現代日本のストレスの高い生活の協和音を求めて、演出家・安田雅弘は、役者の動きを茶室の大きさ(3メートル四方)に限定し、日本の伝統的スタイルの特徴をラジカルに分解するために、いわゆるリアリズム的な演技を放棄している。安田はいくつかの決まりごとを舞台上に求めている。台詞を言う俳優と、聞く俳優は動かずに止まる。止まる際には、体の重心をずらすようにする。動く時にはあたかも狭い通路を歩くようにするというものである。他 の登場人物の台詞を注意深く聞きながら、動き、止まるのである。誰からも台詞をかけられず、また自分も語っていない時は、ゆっくりとした動きを続ける。こ のような制限は、現代の日本人そのものではない。しかし、現代日本人の精神が置かれている状況を抽象的に様式化したものである。

高慢なタイタス

原作のシェイクスピア『タイタス・アンドロニカス』が表現しようとしていることを理解するのは容易ではないが(部分的には良く知られているもの の)、日本語のリズムと響き、さらには独特で一体的な動きは、大きな効果をもたらしている。安田雅弘は、くどい台詞やモノローグをドラスチックに減らして いる。ジェスチャーおよび白い着物の威厳、そして本質的なものにだけ限った動きは、濃縮された悲劇を浮き立たせながら、個人の孤独な断片を際立たせてい る。歴史の抑えられない巨大な残酷さが、まず全体を覆う。死んだ時間はない。事態は無慈悲に展開していく。復讐の連鎖があり、殺戮が連続する。歴史の歯車、そして犯罪の反復は、止めることができない。歴史のダイナミズムが加速され、白熱するフィナーレまで主人公・タイタス・アンドロニカスは、強い感情を 表に出さない。

驚いたことに、運命が人々を消していく残酷さを明確にするために、母(タイタスの妻)--語り手という創造上の登場人物が現れる。彼女の思い出か ら、人物とアクションが現れてくる。彼女はごくごく日常的な風景を眺めている一方で、記憶を再生していくのである。観客が観るものは、瞬間瞬間の場面の連続である。二十人をこえる子供の母でありながら、最後にはたった一人の息子だけが命を取り留めるという母の記憶にある。早撮り写真なのである。動きは流動性に欠け、アクションに欠け、特に、シーンの間の結びつきに欠けていながら、その欠けているものを想像させずにはおかない。記憶とは、本質的な「絵」以外 のものは残っていないものである。自分の軍人としての名誉と英雄的態度をできうるかぎり守ろうとする夫のわがままが原因で、ほとんどすべての息子を失って しまう母親の悲しみが浮かび上がる。母親の記憶は、俳優の動きによって組み立てられる構造になっている。

登場人物たちの叫びはあたかもムンクの「叫び」のごとくである。役者のジェスチャーは豊かな表現となっている。一方の手を上げたままフリーズしてい たり、さまざまなポジションと表情。そしてある写真から次の写真と変わり、一人であったり、グループであったり。それぞれの場面は、各登場人物の精神状態 あるいは状況に基づいて深く錨を下ろした表現になっていることがわかる。『タイタス・アンドロニカス』は、早撮り写真の連続のようにして進んでいくのであ る。ある人物は語り、他の人物は苦しみ、別の人物は陰謀を練る。

すべてのことは母親の居る前で展開する。母親は、諦めの彫像であったり、お茶を飲んでいたり、タオルを畳んでいたり、あるいは冷蔵庫や電子レンジから物を取り出したりしているのである。母の記憶の中で、登場人物たちはその母親には反応しない幽霊として行動している。空間あるいは物質が、さまざまな隠喩・暗喩として使われる。例えば、バナナの入った袋が、人間の切り落とされた手になったり、パイナップルが切断された首になったり。腕を切断する際には、 大量の血を思わせる黒い布が俳優の腕にかぶされる。その際には、効果音が使われる。

母親がテレビをつけると、登場人物たちは森の強姦と犯罪の場面をはじめる。そして記憶の中の人々の動きは、シェイクスピアの物語を展開していくのである。舞台は、本質的なものに凝縮されたテキストとジェスチャーによって進んでいく。運命は、激高した情熱によって、とどめることが不可能な袋小路へと進 んでいくのである。また、二つの対立するグループは衣装によって区別されている。ローマ人は白い伝統的な着物(和服)を着ている。それも通常のものではな く、全体が白い血糊のように汚されている。一方、秩序を乱暴に破壊するゴート人は、これも白く汚された衣裳(洋服)を着ているのである。人々はあたかも犯 罪のあった工事現場から引き出されてきたようである。演技は複雑ではない。役者は叫んだり、笑い転げたりするのだが、対照的な平和と平凡なリズムによって すべてのものが包み込まれている。それはあたかも、ギリシャの大地の女神ガイアが慣習、戦争、血液など、すべてのものを包み込んでいるかのごとくである。

それは創造物、証言、思い出なのだろうか? 表面上は静寂に見える裏側の歴史のどろどろした物なのであろうか?

Cristina Rusiecki(CULTURA掲載)

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