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安田雅弘演出ノート

ヘッダ・ガブラー/2014.3

安田雅弘(2014.3)

 「ヘッダ・ガブラー」は、「人形の家」と並ぶ、ヘンリック・イプセン(1828-1906)の代表作である。イプセンは、世界的に人気があり、シェイクスピアに次いで上演の多い劇作家、とも言われる。
 上演に当たって、下記先達のすぐれた翻訳の数々を参考に、原作を大幅に短縮した。原作通りに日常的な会話のスピードで上演した場合、3時間を超える。コンセプトに沿って、私なりに作品の精髄を抽出した。
 ヘッダ・ガブラーという女性を、私は「誰もが若い頃に抱いていた夢」の象徴ととらえた。純粋で理想は高いものの、漠然として現実感が薄い――そういう夢である。原作テキスト(台本)を読むと、ヘッダは美貌だけが取り柄の、わがままで、高慢で、ないものねだりで、およそ魅力に乏しい女性に思える。おそらくイプセンはわざとそのように書いた。しかし、それが俳優の「若さ」(実年齢とは関係ない)と結合すると、ある種の魅力へと化学変化する。女優ならば、一度は演じてみたい役、と言われる秘密はそんなところにあるのかもしれないし、イプセンの演劇理解の凄みがそこにある。
 若い頃、確かに持っていた。しかしふと気がつくと指の隙間から滑り落ちるようになくなっているもの。今回の舞台美術や衣裳は、そういう考えのもとに作業を進めた。歳を取るのも忘れて、何百年も舞踏会を続けていた人々が、亡霊となって織りなす物語として「ヘッダ・ガブラー」をとらえなおした。かつて形を持っていたもの、カーテンや帽子や花束やグラスや本は、すでにぼろぼろになっている。かろうじて意思だけが残った人々が、通りかかった女性に「ヘッダ・ガブラー」の物語を、夢として見せるのである。
 亡霊たちの振る舞いは、一見むなしく、ばかばかしい。しかしそれはとりもなおさず、私たちの姿である。イプセンが亡くなって、百年強。翻って百年後、私たちも含め、私たちが手にするものは、皆例外なく朽ち果てる。しかし、それゆえにこそ世界は美しいのだ、と私には思えるのである。

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