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安田雅弘演出ノート

テンペスト/2015.1

「テンペスト」の読み方/安田雅弘

 「テンペスト」は「人を許すこと」を描いた作品であると言われることが多い。しかし、そのように読み始めたとたん、この作品はつまらなくなる。
 一瞥して、退屈な作品である。主要な登場人物が出そろい、島の状況が説明されるまでにテキストの半分以上が費やされ、その後それぞれの場面が少しずつ展開し、最後にいきなりプロスペローがすべてを許すという大団円を迎える。たいしたことが起きているようには見えない。第一誰も死なない。
 この退屈さは、主人公が全員死んでしまう四大悲劇と比べれば一目瞭然である。「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」いずれも、言い方はよくないが、初級者が上演しても、それなりに面白くなる。というよりほっといても勝手に面白くなる。手を加えなくても「ドラマチック」なのである。
 「テンペスト」はどうか。研究対象の文献としては、興味をそそられるかもしれないが、舞台化を前提とした台本としては、そのままやるのはなかなかむずかしい。読み方を工夫する余地が大幅に残される。そのあたりが、今回この作品に取り組んでみようと奮い立った芯の部分かもしれない。
 一方不思議なことに「テンペスト」は人気作品でもある。頻繁に上演され、数度に渡り映像化もされている。一見退屈なテキストになぜ? と思ったりもするが、実は、四大悲劇に描かれているドラマの諸要素が、この作品には静かに塗り込められているのだ。「ハムレット」や「オセロ」、「リア王」で描かれている「大切な者、愛する者、育ててきた者から裏切られる」というテーマ。また「ハムレット」「マクベス」のように主人公が重要なところで「眠り」や「夢」に思いを致すところ。「ハムレット」のような劇中劇もあり、「マクベス」の魔女のようなまがまがしい登場人物も配置されている。それが人気の秘密なのだと思う。

 この作品は「人を許すこと」ではなく、「人は許されないこと」が描かれている。私たちは今回、そのようにアプローチすることにした。
 「テンペスト」とは、プロスペローが自分は「許されない」存在であることに気づく過程である。それは、自分が面倒をみてきた者たち、すなわちミランダやエアリエルやキャリバンに背かれることがきっかけとなる。キャリバンに自分が抑圧してきたものの忌まわしさを見、エアリエルに自分の妄想の無秩序を見、ミランダに自分に流れる血の低俗を見るのである。ナポリの女王ジョヴァンナ一行を、嵐で島に漂着させてからのち、嵐が吹き荒れるのは、海でも島でもなく、プロスペローの心のうちだということになる。
 自分を「許せない」彼が、人を「許す」も「許さない」もない。そもそもジョヴァンナ一行を許すことは、嵐を起こす前から織り込みずみだったはずだ。私たちが近づきたかったのは、自分を「許せない」と感じるに至る人間が見る風景である。
 私はつねづね舞台に、現代日本を描き込みたいと考えている。最後にエアリエルに別れを告げ、魔法を、つまりは妄想を捨て去ってしまうプロスペローの姿は、妄想のいかがわしさを嫌い排除して、返って希望も理想も見えにくくなっている、今のわが国の状態とオーバーラップするのである。

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