稽古場日誌

オイディプス@Tokyo 大久保 美智子 2017/01/21

共感を超えて

作中「父を殺し、母と交わり子をなす」とオイディプスが授けられる神託は、ただの神話なのだろうか。現代の私たちも実は依然として強固な神託に縛られているのではないか。劇団員が自分にとっての神託を語ります。
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縛られているものは無数にある。
女だってことや、この時代の日本に生まれたってこととか、長女であるとか。もうそれは自分では選べない。だからいくらもがいてみても、結局は受け入れるしかない。

自分で選べるけれど、縛られているもの。これも無数にある。
電車の中で歌ってはいけない、みたいなモラル的なものから(歌いたい時、ありますよね?)、いつまでも若々しくありたい、みたいな願望まで、時として呪縛になりうる。
こちらについても、若い頃は漠然と「社会」とかに文句言ってたけれど、結局自分で自分を縛ってるワケだから「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ ©︎ 茨木のり子」である。自分で気付くしかない。
そして「ああ、自分、つまらないことに縛られてたな」と気付く経験もなかなかいい。
目の前がパッと明るくなって、一つ視界が開けたようになる。ひとつひとつそういった縛りを解いて行くのが「老い」なのかもと思ったり。

しかし、それと「神託」とは別物なのではないかと思う。
神の言葉を聴くために、人がどれだけのことをしたのか。どんな手続きを踏んだのか。
身体を禊ぎ、心を澄ませ、ある時はトランスまで起こす。
断食をしたり、危険極まりない辺境の地へ赴いたり、異性との交わりを絶ったり。
神から生贄を求められることもある。それが自分だったり、自分の娘息子だったり、ということも当然ある。この場合、生贄を差し出さないという選択肢は無い。それだけの覚悟で人は神託を受けた。まさに命懸けだ。そんな過酷な神の言葉は聞かなきゃいいのに、人は「わざわざ進んで」神託を受けに行ったのだ。何故!?

これ、いつの間にか自分を縛っているものと同じ?  私にはそうは思えない。

オイディプスの生きた時代と今を繋げるために、私たちお芝居の作り手は一生懸命考える。
戯曲の中に、私たちが共感できるポイントを必死で探る。
でも、ほんと? と私は思う。
「現代の私たちとオイディプス、一緒じゃん!」 ってとこ、ほんとに大事?
同じ人間ってことは保証されているのだから「うげぇ!  ものすっごい違う。ありえない!」ってなってもいいんじゃないかなあ。その方がスケールがデカくなる。人間ってものの幅が広がる。
中途半端な共感は狙わなくてよい、と私は思っている。そちらはTVや映画に任せておこう。

わざわざ演劇なんてものを選んでやっているのだもの。共感を超えようぜ。

大久保美智子

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若手公演「オイディプス@Tokyo」
2017年2月23日(木)~26日(日)
すみだパークスタジオ倉
公演情報はこちら

Oedipus@Tokyo

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