稽古場日誌

班女 鹿沼 玲奈 2017/06/20

霧の中を走れ

「大久保美智子主導の稽古」には私の劇団員生活の半分を費やしている。

山の手事情社には研修生制度というものがある。1人ないし2人の劇団員が1年間、研修生を指導し(エチューダー、という言い方をする)、その研修生の中から新劇団員が若干名入団するのだ。
私のエチューダーは大久保だった。
研修生の頃の思い出といったら、「よく走った」ということだ。
夏の炎天下でも極寒でも少しの雨でも関係ない。
大久保の「はい、じゃあ、走りましょう!」の声とともに駆け出した。
もともと私は走るのが嫌いだ。
それでも体力をつけなくてはならない。だから劇団員になってからも、トットコトットコ走っている。

しかし最近まで、ひとつ疑問があった。
稽古のルーティンのことだ。
大久保稽古はいつも、ランニングを最初に行った。
ランニングをしてから、柔軟運動をし、そのあとに筋トレをしていたのだ。
これは単純に体を鍛えるためには矛盾した順番だ。柔軟、筋トレ、ランニングの順に行えば、無駄な負荷もなくさらに筋力は上がる。怪我も少ないだろう。
それでも私はごく最近までこのルーティンを(半ば惰性で)やり続ける日々だった。

そして、『班女』の稽古に入った。
「おまえは全く体がつかえんな」瞬時に大久保からのダメが入った。
今回の演出で、私が演じる「花子」の動きは能がベースになっている。ゆったりとしている。止まっているときさえある。その止まった状態で激しい感情を湛える。その体は、いったいどんな体なのか。山の手事情社の《四畳半》とは、どこか違う。
どうしても体がつくれない私に、大久保は目隠しをして花子を演じるように導く。
すると、自分と周りの空気の境目がなくなったような感覚になった。そして、素直にそこに存在することができたのだ。
「自分の体を見られる状態、というのは、周囲をきちんと把握し、その環境の中での自分の立ち位置を掴めるときのことじゃないか。この稽古の先にある体とは、言われた言葉とは逆の状態なのだ」。
稽古終わりに、そこまで考えて、ふとランニングのことと繋がった。

ランニングは野外で行う。
野外にはいろんなモノがある。車、ざわめき、暑い、暗い… 情報量は膨大だ。
しかし、そのなかで考えることは自分のコンディションだ。走り出せば、息の使い方、坂道での挑戦の仕方、足の具合、自分の内面に集中が偏るのだ。
これは自分の体を「見る」というよりむしろ「診る」稽古だ。
「鹿沼玲奈」自身の調子を把握して、 「花子」になるときにその情報を使い、周囲を見渡す。
止まっているときは中を見ているようで、外を見ている。
動いているときは外を見ているようで、中を見ている。
その体が、俳優には必要なのだ。
そう、だから、やっぱり走るという作業は、稽古の一番最初に必要なのだ。

と、ここまで書いて、まるでお寺で修行しているような内容だなあと苦笑した。
しかし冗談でなく、大久保の稽古はそのような印象がある。
ひとつの稽古で気づくものは大きい、ただ、そこまでには霧の中を進むしかない。
非常に苦しい、非常にきつい。
だが、やれば、いつかできるようになる。きっと。

だから、今日も私は走っています。

鹿沼玲奈

*******************

「班女」
2017年6月30日(金)~7月4日(火)
The 8th Gallery(エースギャラリー)
公演情報はこちらをご覧ください。
20170429_hanjo_omote

稽古場日誌一覧へ