稽古場日誌

タイタス・アンドロニカス/女殺油地獄 佐々木 啓 2015/10/26

リアルとフィクション

リアル(現実)とフィクション(虚構)果たしてどちらがより強固なのか?

なぜそんな事を考えるのか。
それは、フィクションがリアルを超えることが面白い舞台の条件の一つだと思うから。
つまり舞台上で繰り広げられているドラマ(虚構)が観に来たお客さんの日常(現実)を打ち破る瞬間、その瞬間が面白い作品の素なのだろう。

それでは、さてリアルとフィクションどちらがより強固なのだろうか?

それは・・・リアルだろう。僕はそう思う。残念ながら。
一見、普段の何でもない日常よりシェイクスピアの壮大な物語の方がよっぽど強烈なようだが、そうでもないと思う。
皆意識してないだけで日常に縛られている。それもそうだ、なぜなら皆日常の中で生活しているのだから。リアルを生きているのだから。
もっと言ってしまえばリアルがあるからフィクションがあると言っても過言ではない。考えてみると日常のことを忘れている瞬間が一日のうちでどれくらいあるだろうか?

やはりリアルは強固だ。

ただ、リアルに支配され続けるのは健全ではないと思う。もちろんある程度現実を見ることも大切だけれど、何となくリアルに支配され続けると病んでしまったり自殺に踏み切ってしまうのではないかなぁ、と思う。なぜかは自分でも今は分からない。
だから皆無意識のうちに防衛本能を働かせて、アニメを見たり、漫画を読んだり、小説を読んだり、好きな音楽を聴いたり、旅行に行ったりして、リアルから距離を置くのではないだろうか? フィクションに助けを求めるように。

やはりフィクションは必要だ。

そういう意味では演劇はリアルと距離を取るにはには最適だと思う。
ただ、少しでもつまらないフィクションを見せてしまうとその時点でお客さまは座席に座りながらリアルに引き戻されてしまうことになる。
出演者たち(リアル)と登場人物たち(フィクション)の距離感がとても難しい。

話は変わるが、今回上演する「タイタス・アンドロニカス」は、ハード過ぎてここでは記せない残酷な内容だ。当然稽古もハードになってくる。
出演者たちは精神的にも肉体的にも金銭的にも極限状態になりつつある。
「タイタス・アンドロニカス」の登場人物たち程ではないにしろ苦しんでいる。
出演者たち(リアル)と登場人物たち(フィクション)が奇妙にブレンドされつつある。
別に苦しい思いをしたからと言って必ずしも面白い作品が出来るわけではないが、リアルとフィクションが程よい距離感を持つと良作は生まれる気がする。

リアルを超えたフィクションが見られる気がしてならない。

山の手事情社はリアルを超えたフィクションを提供できるのか、是非ご自分の目でお確かめください。

佐々木哲

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『タイタス・アンドロニカス』『女殺油地獄』公演情報
https://www.yamanote-j.org/performance/7207.html

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