劇団山の手事情社

タイタス・アンドロニカス ルーマニア公演

構成・演出/安田雅弘
2009年6月1日 国立ラドゥ・スタンカ劇場(シビウ国際演劇祭)
2009年6月5日〜7日 市立アリエル劇場(ルムニク・ブルチャ)
2009年6月10日・11日 国立ブカレスト劇場・アトリエホール(ブカレスト)

チラシ

ルーマニア公演レポート

私たち、劇団 山の手事情社のメンバーは、平成21年5月29日から6月12日まで、ルーマニアのシビウ、ルムニク・ブルチャ、ブカレストの3都市で、『タイタス・アンドロニカス』の公演を行ないました。公演は無事に終了し、現地では思いがけない大きな反響を呼びました。

特に最初の公演地シビウは、イギリスのエディンバラ、フランスのアヴィニョンに次ぐ、ヨーロッパ三大演劇祭の一つとされ、近年レベルの高い、影響力のあるフェスティバルとして注目されています。平成19年に主宰の安田が視察し、その表現水準の高さに驚き、強く参加を望んできました。幸いフェスティバル・ディレクターのコンスタンティン・キリアック氏が劇団のDVDを見て気に入ってくださり、招聘される運びになりました。

以下、ルーマニア公演の概要と成果を簡単にレポートしましょう。

■シビウ公演
会期…6月1日、19:00開演、計1回公演。会場がフェスティバルのメイン会場であることもあり、原則1回公演です。
会場…国立ラドゥ・スタンカ劇場。
ここには、シビウ国際演劇祭の本部があり、芸術監督コンスタンティン・キリアック氏の本拠地でもあります。かつて映画館であった建物を改修したユニークな劇場です。
座席数…250席ほど。超満員、立見客多数でした。

■ルムニク・ブルチャ公演
会期…6月5日〜7日、19:00開演の公演を、計3回。
会場…市立アリエル劇場(新館)。
座席数…200席ほど。初日、満員。2日目、3日目は9割。

■ブカレスト公演
会期…6月10日、11日、19:00開演の公演を、計2回。
会場…国立ブカレスト劇場・アトリエホール。
座席数…200席ほど。初日7割、2日目8割ほど。

評論

舞台の文化、道化の真実
母性の引き裂かれた血

今年の「シビウ国際演劇祭」で紹介された舞台でもっとも面白かった舞台の一つは、日本の「山の手事情社」によるシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』であった(ブカレストでも上演された)。これまでに「シビウ国際演劇祭」および「シェイクスピア・フェスティバル」に招待された舞台によって、偉大なシェイクスピアのテキストと、日本の伝統演劇の技術(ヨーロッパ人とは違った身のこなし、侍の厳格さなど)のコンビネーションは、驚くほど素晴らしい結果をもたらすということがわかっている。

私たちにはあまり馴染みのない言語、その響き、儀式のようなゆっくりとした、威厳のある動き−−時代と時間を経た厳しい訓練による−−の堂々たる舞台空間は、良く知られた物語を飲み込み、これまでに演じられた舞台のレベルをさらに引き上げるものとなっている。

《山の手メソッド》とはどのようなものか

「現代演劇の詩」とも評される、《四畳半》スタイルで作られている「山の手事情社」の作品は、現代作品でも、古典作品でも(シェイクスピアの『夏の夜の夢』、ソフォクレスの『オイディプス王』、ゲーテの『ファウスト』などをいままでに上演している)、現代日本人の精神を、狭い空間と、最小限の動きで表現しようとしている。《山の手メソッド》によって創り出された成果は、スイス、ドイツ、ポーランド、韓国そして今回はルーマニアにおいて大きな成功を収めた。この劇団の創設者であり芸術監督である安田雅弘(1962年生まれ)は、これまでに40以上の作品を演出してきている。シェイクスピアの作品は少なくない:『ロミオとジュリエット』『じゃじゃ馬ならし』『ハムレット』など。《山の手メソッド》とは、役者の対話の技術、および身体訓練を通じて、即興性と機動性の鍛錬、別人格へのジャンプなどの能力を発展させるものである。この劇団の稽古で欠かせない物は、俳優の言葉と、動きの組み合わせで、現代の日本の役者のために特別に考え出された一種のダンスとも言える。これは、現代の日本の役者が忘れてしまった日本舞踊や能の仕舞の動きの繊細さを思い出させるものに思える。一見単純に見える《歩行》訓練に、多くの時間やエネルギーが費やされ、僅かな感情のニュアンスの変化に合わせて俳優はポーズを変える。また、日常的な感情や動きを、舞台上の様式に置き換えるため、台本や登場人物をめぐる解釈にも多くの稽古時間が割かれている。

現代日本人の精神性を様式化

《四畳半》は、日本の伝統芸能である能および歌舞伎の様式に学び、母音のアクセントと最小限の身体的動きを重視する。新しく、オリジナルな表現スタイルを創造する努力と、現代日本のストレスの高い生活の協和音を求めて、演出家・安田雅弘は、役者の動きを茶室の大きさ(3メートル四方)に限定し、日本の伝統的スタイルの特徴をラジカルに分解するために、いわゆるリアリズム的な演技を放棄している。安田はいくつかの決まりごとを舞台上に求めている。台詞を言う俳優と、聞く俳優は動かずに止まる。止まる際には、体の重心をずらすようにする。動く時にはあたかも狭い通路を歩くようにするというものである。他の登場人物の台詞を注意深く聞きながら、動き、止まるのである。誰からも台詞をかけられず、また自分も語っていない時は、ゆっくりとした動きを続ける。このような制限は、現代の日本人そのものではない。しかし、現代日本人の精神が置かれている状況を抽象的に様式化したものである。

高慢なタイタス

原作のシェイクスピア『タイタス・アンドロニカス』が表現しようとしていることを理解するのは容易ではないが(部分的には良く知られているものの)、日本語のリズムと響き、さらには独特で一体的な動きは、大きな効果をもたらしている。安田雅弘は、くどい台詞やモノローグをドラスチックに減らしている。ジェスチャーおよび白い着物の威厳、そして本質的なものにだけ限った動きは、濃縮された悲劇を浮き立たせながら、個人の孤独な断片を際立たせている。歴史の抑えられない巨大な残酷さが、まず全体を覆う。死んだ時間はない。事態は無慈悲に展開していく。復讐の連鎖があり、殺戮が連続する。歴史の歯車、そして犯罪の反復は、止めることができない。歴史のダイナミズムが加速され、白熱するフィナーレまで主人公・タイタス・アンドロニカスは、強い感情を表に出さない。

驚いたことに、運命が人々を消していく残酷さを明確にするために、母(タイタスの妻)−−語り手という創造上の登場人物が現れる。彼女の思い出から、人物とアクションが現れてくる。彼女はごくごく日常的な風景を眺めている一方で、記憶を再生していくのである。観客が観るものは、瞬間瞬間の場面の連続である。二十人をこえる子供の母でありながら、最後にはたった一人の息子だけが命を取り留めるという母の記憶にある。早撮り写真なのである。動きは流動性に欠け、アクションに欠け、特に、シーンの間の結びつきに欠けていながら、その欠けているものを想像させずにはおかない。記憶とは、本質的な「絵」以外のものは残っていないものである。自分の軍人としての名誉と英雄的態度をできうるかぎり守ろうとする夫のわがままが原因で、ほとんどすべての息子を失ってしまう母親の悲しみが浮かび上がる。母親の記憶は、俳優の動きによって組み立てられる構造になっている。

登場人物たちの叫びはあたかもムンクの「叫び」のごとくである。役者のジェスチャーは豊かな表現となっている。一方の手を上げたままフリーズしていたり、さまざまなポジションと表情。そしてある写真から次の写真と変わり、一人であったり、グループであったり。それぞれの場面は、各登場人物の精神状態あるいは状況に基づいて深く錨を下ろした表現になっていることがわかる。『タイタス・アンドロニカス』は、早撮り写真の連続のようにして進んでいくのである。ある人物は語り、他の人物は苦しみ、別の人物は陰謀を練る。

すべてのことは母親の居る前で展開する。母親は、諦めの彫像であったり、お茶を飲んでいたり、タオルを畳んでいたり、あるいは冷蔵庫や電子レンジから物を取り出したりしているのである。母の記憶の中で、登場人物たちはその母親には反応しない幽霊として行動している。空間あるいは物質が、さまざまな隠喩・暗喩として使われる。例えば、バナナの入った袋が、人間の切り落とされた手になったり、パイナップルが切断された首になったり。腕を切断する際には、大量の血を思わせる黒い布が俳優の腕にかぶされる。その際には、効果音が使われる。

母親がテレビをつけると、登場人物たちは森の強姦と犯罪の場面をはじめる。そして記憶の中の人々の動きは、シェイクスピアの物語を展開していくのである。舞台は、本質的なものに凝縮されたテキストとジェスチャーによって進んでいく。運命は、激高した情熱によって、とどめることが不可能な袋小路へと進んでいくのである。また、二つの対立するグループは衣装によって区別されている。ローマ人は白い伝統的な着物(和服)を着ている。それも通常のものではなく、全体が白い血糊のように汚されている。一方、秩序を乱暴に破壊するゴート人は、これも白く汚された衣裳(洋服)を着ているのである。人々はあたかも犯罪のあった工事現場から引き出されてきたようである。演技は複雑ではない。役者は叫んだり、笑い転げたりするのだが、対照的な平和と平凡なリズムによってすべてのものが包み込まれている。それはあたかも、ギリシャの大地の女神ガイアが慣習、戦争、血液など、すべてのものを包み込んでいるかのごとくである。

それは創造物、証言、思い出なのだろうか? 表面上は静寂に見える裏側の歴史のどろどろした物なのであろうか?

Cristina Rusiecki(CULTURA掲載)


日本版ローマが、
ラドゥ・スタンカ劇場で上演される

心が爆発する

ウィリアム・シェイクスピアの初期作品の一つと考えられている悲劇「タイタス・アンドロニカス」が、日本の山の手事情社によって、独自の様式の下で、再演された。ユニークな演技スタイルで知られる日本の役者達は、モダンな形で、アンドロニカス将軍の時代のローマの物語、当時の残虐で恐ろしい物語を舞台に表現した。

音楽、テレビ、冷蔵庫、電子レンジは、観客がこの歴史的物語により早く溶け込み、アクションの中に直接入り込めるようにする腕のように使われている。舞台は、最高司令官とゴートの女王タモーラの裁判の場面から突然始まる。

(以下、タイタスの物語のあらすじ)


Adina Katona(2009年6月3日・シビウ国際演劇祭の日刊紙Aplauze掲載)


(タイタスの作品の歴史について)

(タイタスの作品の特徴について)

(山の手事情社の設立の経緯など)

今年のシビウ演劇祭でこの劇団がルーマニアの観客の前で舞台を演じた。完璧に機能し、役者のレベルも同質化されており、各役者の演技はアンサンブルとしての厳格な芸術的目的に従属させられている。シェイクスピア演劇の「大虐殺の演技」の再現は、演出家にとっては、二つの文明の間のインパクトを反映する様式となる。ゴートを演じる役者達は西欧の服を着ており、逆にローマ人たちが日本の着物を着ているのである。
プログラムの指摘しているところによれば《四畳半》スタイルによる演技は、日本の宗教儀礼をはじめ、すなわち仮面、不自然な動きなどの影響を受けており、さらに能や歌舞伎の伝統的形式の影響を受けているのであろう。そして表情や暴力的な化粧や「シミの着いた」「ダルマチアン」のような衣装の貢献もさることながら、役者の演技が強い印象を与えている。きわめてゆっくりとした動き、滑るような足の運び、着物を着たときの特殊な動き、さらに殺戮の場面の象徴的な表現など。

Ovidiu Pecican(2009年6月12日・Artact magazin掲載)


シビウ国際演劇祭FITS(3)
『タイタス・アンドロニカス』新しいフォームの演劇

山の手事情社は、1982年、学生演劇としてデビューした。四半世紀を経て、新しい演劇の手法を提示するまでに至った。ヨーロッパ演劇の古典に対する劇団の傾倒は明らかであるが、これまでの作品では『タイタス・アンドロニカス』(1999年から演じてきている)、『じゃじゃ馬馴らし』(2000年)、『ロミオとジュリエット』(2003年)、『真夏の夜の夢』(2004年)、ソフォクレスの『オイディプス』(2002年)などがある。

(タイタスの物語のあらすじ:省略)

シェイクスピアはエリザベス時代の演劇を刷新するのに彼一人で十分であったが、劇団山の手事情社と演出家・安田雅弘は、演劇の新しいスタイルを創造した。そして『タイタス・アンドロニカス』はこのスタイルを代表する作品であると思われる。この《四畳半》と呼ばれる新しいスタイルは、観客に向かって役者が直接働きかけるもので、視覚的効果と母音に力を入れた台詞の明確な発声との協力によって生み出されるものである。安田雅弘によって開発されたこの《四畳半》スタイルは、「日本舞踊」と呼ばれる、日本の伝統的なダンスと、能あるいは歌舞伎から受け継いだものとを起源としている。
『タイタス・アンドロニカス』は、チームで行う芸術的パフォーマンスであるが、それぞれの役者が、アンサンブルとしての均衡を破壊することなく、輝きを放つ場面があるのである。これは、さまざまな性格をもった力を発揮するが、心の動きのメカニズムを破壊することはない。そして的確な場面で台詞が出てくるのである。こうして表現力豊かな一つのタイプがそこに現れ、その目配りで貴方を釘付けとするのである。役者は歩くのではなく、滑るように見えた。彼らの動きは、ステップ・バイ・ステップではなく、場面ごとに区切ることは出来ない。映画のスローモーションのように滑っていくのである。そして時々動きが中断され、適切な効果音に支えられてより急激な動きが導入されたりするのである(首を切ったり、腕を切ったり、あるいは性的行為など。それはあたかも感電したかのように扱われているが)。
『タイタス・アンドロニカス』は、単に良く出来た舞台ではない。演出家安田雅弘の舞台は、一つの新しい演劇のフォームを提案しているのである。舞台にはグループになった役者が、ちょうど組織化されたチェスのメイレイ(mêlée)のように現れる。役者たちはアクションの場面の必要に応じてそれぞれの位置を変えていく。まとまった「歩兵」達の力によって台詞のインパクトが強められることとなる。ラグビーのメイレイ(mêlée)のようでもある。また私たちにとっては予期しないものであったが、劇団山の手事情社は観客を飲み込んでしまうほどの特別な芸術的価値をもつ舞台を証明してみせたのである。この舞台は、茶室の大きさでも成功裏に上演できるものである。つまり8メートル四方の空間である!
たとえ日本の役者の名前は、私たちの読者には知られていないとしても(当面)、この革新的舞台の共同・作者であるので、この素晴らしい芸術的舞台に敬意を表して名を上げておきたい。

(以下、配役とスタッフ)

Cristian Sabau(2009年6月18日・bitpress掲載)

キャスト=山本芳郎倉品淳子浦弘毅水寄真弓山口笑美川村岳岩淵吉能
斉木和洋山田宏平三村聡野々下孝植田麻里絵越谷真美三井穂高

照明・舞台美術=関口裕二・菅橋友紀・小栗永里子 音響=斎見浩平
衣装=渡邊昌子・竹内陽子 舞台監督=長堀博士 通訳=志賀重仁
コーディネート=七字英輔 宣伝美術=福島治 演出助手=小笠原くみこ
制作=福冨はつみ
製作=劇団山の手事情社 有限会社アップタウンプロダクション UPTOWN Production Ltd.


■シビウ公演
国立ラドゥ・スタンカ劇場(シビウ国際演劇祭)
6/1
mon
19:00 ●


■ルムニク・ブルチャ公演
市立アリエル劇場
6/5
fri
6/6
sat
6/7
sun
19:00 ● ● ●


■ブカレスト公演
国立ブカレスト劇場・アトリエホール
6/10
wed
6/11
thu
19:00 ● ●




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