10/06/22

オイディプス王

海外公演で大変なのは…

海外公演というとやっぱり大変なのは現地スタッフとのやりとりなのです。
民族性の違いが如実に出ます。
まず、自分の仕事以外のことは絶対しません。そしてそれは当たり前なことなのだとか。

ルーマニア公演当日、劇場に入る時にドアマンがいるのですが、僕らの荷物を入れるのにやさしく手伝っているのを見て感心していると通訳のダニエラさんが「あたりまえじゃん。これが彼の仕事なんだから」ってさらっといっていました。

ドアマンはドアマンの仕事、衣装は衣装の仕事、大道具、照明、音響から、楽屋掃除、そして役者等々、きちんと役割分担がなされています。もし時間が余っているからと言って役者が大道具の手伝いなどしようものならどやされるんだとか。「もし怪我などされたら責任は持てない」ということらしく。

自分の事は自分で責任を持つ。という、いわいる個人主義。これって日本人にはなかなか馴染めない感覚で、意外と厄介。
早く皆で協力して仕事終わらせたいのにそれがかなわないことが多い。
仕込み中に脚立が必要で、お願いすると「今、脚立担当がいないから」と言われ、いちいち待たされる事もあったり。なんだよ脚立担当って。
てな感じで、劇場仕込みは毎回厄介なものなのです。

しかしここで登場するのがこの人。
舞台監督の本さん。髪の毛はサイヤ人よろしくおったて茶髪に、足元は下駄。カランコロンという音に、ルーマニア人のみならず日本人も振り返るような一風変わった日本人なのですが、彼の独壇場なのであります。
ヒゲのはやした舞台担当のルーマニアのおっちゃん。見るからにどこにでもいる頑固な職人さんですわ。初めのうちは「また面倒な外人がやって来た、わしは何もせんぞ」とばかりに身構えていたのですが、本さんにかかるとイチコロなのです。

本さん、英語しゃべれません。ルーマニア語、一言もしゃべれません。しかし、怪訝そうなおっちゃんの目をかっと見据えて、
「コレ(部材を指差す)、イ・マカラー・クミタイ。(今から組みたい。)OK?」という、最後のオーケーだけが英語で、あとは日本語、しかもイントネーションが微妙に英語チックになり、もはや日本人にも理解しがたいわからん言語を発します。
ところがそれを聞いたおっちゃん、いやいや聞いたというか感じたおっちゃんは「オーケー、オーケー!」と急に活き活きと働き出します。本さんに同じ職人の血を感じたのか、本さんの熱い目力と発語になんか通じ合ってるようなのです。
本さん「違う!チ・ガーウ。コッチ」
おっちゃん「…」
本さん「コーーーチ!(大きく腕を上下)」
おっちゃん「Oh、OKー!」
はたから見るとなにがなんやらなのですが、二人はいつの間にか意気投合、気がつくと着実に舞台は出来上がっています。
休憩時間は、大道具部屋にご招待されコーヒーまで振舞って頂くほど。恐るべし本弘。
おっちゃんが「日本行ったことあるよ。パークハイアットホテルに泊まった。浅草ー」などと陽気に話してくれました。いいとこ泊まってんじゃんおっちゃん。

人種も違うし、言葉も違う現地のスタッフたちとそんなこんなしながら一緒になって一つの舞台を作り上げる。
これも海外公演のひとつの魅力だなって思います。大変ですが。

後日、ラドゥスタンカ劇場の専属日本人俳優の古木さんと飲む機会があって彼が言うには、
「劇場のスタッフが山の手さんのこと感心していましたよ。舞台の使い方や、楽屋の使い方がとてもすばらしいし、時間もきちんと守る。彼らこそ本当のプロだって。ルーマニア人も見習うべきだって言ってました」
とのこと。
おいおい、どうせなら、本番のこと褒めてくれよな。

岩淵吉能

10/06/22

オイディプス王

稽古場を遠く離れて

ハンガリーはペーチの公演にて。生まれて初めて己の唾液に溺れた大久保です。流れ込んでくる唾液に対してセリフが出つづけたため、ゴボガッとなりました。素人か!と自分に突っ込みを入れ、ハンガリー人にバレませんように。と心で手を合わせました。なむー

芝居がうまいって何だろう?

と激しく考えた旅でした。
うまいとか、凄い、演技、演出、役者。

自分は芝居下手ですが、ヘタウマを目指したりは決してするまい、と思ってきました。下手は下手なのだ、それを売りにするまい、うまくなるのだ、と。
しかし、なんだか、そんなこと考えるのもバカバカしくなるような、豊かな世界があるのだなあ…と、この旅で気づかされました。
今まで「ここがウマいレベル」と設定して必死でモゴモゴしてたところが、実は大したレベルじゃなかった、みたいな。

そういう衝撃は、気持ちいいものです。

下手なりに、凄くなることも、可能なんじゃないか。

と自分にいいように解釈し、よーし!
ってな気分です。
よーし!

大久保 美智子

10/06/21

オイディプス王

東京公演に向けて

自分たちが当たり前にやってることが、海外で上演してみてその特殊性に改めて気付かされることがある。

山の手の「オイディプス王」という作品には冒頭で「配役」と呼ばれるシーンがある。
ベッドの上でたわいもない会話をしていた女の子が、男優の演じる運命たちによって役をふられ「オイディプス王」の中の登場人物たちに変身していくシーンだ。
変身という言葉ははふさわしくないんだけど、とにかく体のかたちを変えて違うものになったということにしている。自分には程遠い人物や自分の知らない感情を自分に入れ込むための器を作る作業だ。

これは他の演目でもたびたびやることはあるし、今回も演出的な理由でことさらにそういうシーンになっているのだが、考えてみたらこんな演じ方はルーマニアやハンガリーの観客にとっては新鮮な感覚だったのかもしれないと思ったりする。

欧米でも同じ芝居で複数の役を演じることはあるし、舞台上で変身することもあるし、その演じ分け自体が俳優の能力ということになっているけれども、いずれにしても元の自分からは変身してその役の人物になりきっているという約束になっていると思う基本的に。

でも山の手の「四畳半」の場合、その体に俳優個人は完全には消えておらず、俳優個人と役の人物は微妙な距離感で同居している。
そういうことになっている。(厳密には女の子の役というのも消えずに同居しているのかも)
たぶん日本的な感覚なんだと思う。

「配役」のシーンは、図らずもそういったことを伝えられるシーンになっていたのかも。

観客の反応はどちらの国も上々だったけれど、声や動きのエネルギーがヒットしたのか、あるいは構成や見せ方がヒットしたのかいろいろあるんだろうけど、僕らが予期していないところを思いがけず拾ってくれていることがあるんだろうなと思う。

去年持って行った「タイタスアンドロニカス」でも、僕らが亡霊歩行と呼んでいたものが向こうの観客にはずいぶん面白かったようだ。「四畳半」では普通にやる水平移動だけど、そのときはいつもと違う本来のすり足のやり方に意識的にこだわった。

今回もそういった演劇的に特殊なところが、ある程度でもいいものとして伝わっていたのならばとってもうれしい。

海外公演をしたことは結局、自分たちが日本の観客に何を見せているのかということを改めて問うことになったのでとてもよかったと思う。
僕はルーマニアやハンガリーの観客よりアサヒアートスクエアに見にきてくれる日本の観客の方がはるかに怖い。

はたして九月の凱旋公演はどういったものとして受け入れられるか。

山本芳郎

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