11/03/01
『修了公演にまつわる話〜研修生編』
研修生になってからというもの、「まあ…やってみて」と日々エチューダーに無茶ぶりとも言える難題をぶつけられた。
頭でっかちの私は思考の方が先にいく為に身体と頭がバラバラになる。
・何がしたいのか、
・どう見せたいか、
・何故やらないのか、
わからない
とエチューダーの大まかなダメ出しはこの3点。
なんて的確なのだろうか、ぐうの音もでない。
長々考えないとなかなか答えが出せない鈍い私は、「うう」とか「ああ」とか言いながら結局答えが出ないで次回に持ち越しになってしまう。
もうちょっと時間とヒントが欲しいのですが…と進言する暇無く新しい難題が鋭い切っ先を光らせながら飛んでくる。
だいたいそんな日は稽古場から最寄り駅となる田園調布駅までのぐねぐねとした坂道で、さっき稽古場で書きなぐったメモを思い出しながら、トボトボと歩いた。
私は暗い女なのでめったにウキウキした気持ちで帰路を歩んだりしない。
坂道を上りながら人は落ち込むと本当に肩が落ちるんだなあと妙に実感し、まるでこの坂は人生のようだね、などと信じられないくらい古めかしく大袈裟な例えの台詞がつい口からこぼれたりした。
それを聞いた同じ研修生も「私も今そう思ってた」と言い、妙な安心感。
毎日、苦しくとも不思議と絶望感はなく寧ろ充実していたように思う。
ただそれが、研修生の集大成である修了公演という明確な目標に向かって、稽古をほぼ毎日張り切ってやってる事に満足している自分に気づくまでは……だったけれど。
それに気づいてからは「こうなりたい」とか「こう表現したい」のに「出来ない」というなかなか充たされない渇きの様な欲望が段々募っていった。
修了公演本番はどんどん迫ってくる。
焦る、焦る、焦る。
…枯渇。
焦りと渇きも、いよいよ限界に達した時、渇きを潤すのは自分自身という事に気づいた。
水飲み場までは、エチューダーは連れていってくれるだろう。
ただし、水を飲むのは自分自身。
水飲み場までは連れていってくれる訳だから、早いところ、みっともない自分の目を覚まして何とか水を飲む術を見つけたらいいと思う。
ただしそれも、とてつもなく難しい事なのだけれど。
修了公演を思い返しても、思い返しても、ああすればよかった、こうしたらよかったんじゃないかと後悔しか思い浮かんでこない。
結局、修了公演を終えた後も達成感や満足感を得られなかった事が何よりの収穫だったと思う。
私にとってずっと枯渇を感じている事が次へと進化していく最低条件なのだとわかった。
修了公演は一時的な目標であり何かの終着地点ではない。
それをはっきり知ったという事。
これは(月並みな言い方だか)掛け替えのない経験と言えるのではないだろうか。
村田明香