13/03/29
「ひかりごけ」稽古場日誌/「もしも私が」
照明プランナー兼オペレーターという立場上、本番前も本番中も、繰り返し「ひかりごけ」を観劇している自分。
芝居は生ものとは良く言ったもので、見るたびに違う発見があり驚くことも多々ある。
先日、本番を終えオペ室でボーっと舞台を見ていた時に今まで考えなかった思考が生まれた。
それは、自分の身内が喰われて、その喰った当人が目の前に存在したらどういう気持ちかというものだ。
妙な事に、私はその喰った人に、嫉妬のような感情が芽生えるような気がした。
自分の大好きな人間を吸収した人間。
そこに火山が噴火するような嫉妬心を覚える。
思考で考えれば、どちらにせよ死亡しているのだし、その行為のおかげで一人の人間を助けたのだから良いじゃないかと思う。
しかし気持はそうはいかない。
その人間の細胞を大好きな人が構成しているかと思うと、そこだけむしりとりたくなる。
そしてそうできないその人が「存在する」ということに、吐きたくなる程の怒りを覚えるだろう。
そしてその人は「人」ではなく、「人と人が融合した得体のしれない物体」、となり、私の混乱を招き続けるだろう。
ところが一方、自分の身内が人を喰って生きて帰って来たとしても、私は嬉し涙を流して抱擁する。きっとそうする。
誰かが後ろ指さそうが、守ってやる。
非難する世間には、唾を吐きかける。
時と共にきっと私にその身内は、一時厳しい試練にあった「人」にしか見えなくなる筈だ。
そう、何たる自己矛盾。
自分でも酷い自己中心的な性格だなと思います。
だけれどもそう考えると逆に、平等とか、一般とか、世間ではとか、それが一体何を基準としているのかわからなくなる。
更に言うと、そういうものを飛び越えて自分の価値観というものを突きつけられる。
そしてその空間は、とても混乱し、とてもウズウズし、そしてとても疲れる。
だけどその思考は自分の中に話しかけるようで、少しの安心も覚える。
色々なものを取り払った純粋な思考。
ここに浸る感覚は、何か癖になる。
あぁ、だから私は「ひかりごけ」を見る事が嫌じゃないのかも知れない。
書きながら、そう気付きました。
皆さまはどう感情移入しますでしょうか。
小栗永里子
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山の手事情社公演「ひかりごけ」
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