『ひかりごけ』は私が初めて本格的に演出というものに挑戦した作品です。
2004年今から9年前、ある山の手事情社のワークショップで知り合った3人の50代から60代の女性と、たくさんの戯曲の中から実際に読んでみて選びました。
文庫本になっている有名なこの作品は、作者(私)が北海道のマッカウス洞窟に実際にひかりごけを見に行き、実際に起こったこの事件について調べる様子を描く随筆形式の前半と戯曲形式の後半に別れていて(さらに戯曲部分は1幕、2幕に分かれている)、前半の終わりに?上演不可能な戯曲″?読む戯曲″という形容がなされています。
確かに、どんなにおなかが空いていたとしても、人肉を食らうまでのすさまじい極限状態を舞台上で表現するのはとても難しく、どんなに俳優さんが上手でもそのままやってしまうと何だかうそくさく感じてしまう。
私はこの登場人物(4人の海の男たち)をふくよかなシニアの女性たちで上演することで実際とのギャップを作り、そこに観る側の想像力が働かせやすい仕掛けを作りました。そして彼女たちの若いころのようには動かない身体とそれをなんとか動かそうともがく葛藤状況に、おなかがすいて簡単には動けない葛藤状況とを重ねました。
彼女たちはプロの俳優ではありませんでした。にも関わらずその年輪を重ねた深い声と簡単には動かない重い身体は、偶然にもこの作品にマッチしていたように思います。ある稽古でのこと、段取りをわかってもらうために山の手事情社のほかの俳優に手本を見せてもらった時、その身体の軽さに驚きました。その女優さんは、日ごろから鍛練を欠かさず身体に関する意識の高い人です。でも、素人の彼らの身体の重さは再現できなかったのです。しかしそれは私自身にも言えることで、私もこの作品に一番早く死んで食べられる役で出演していたのですが、プロなのにどうしても彼らの存在感に負けてました。
私はこの作品を、知り合いのイタリアンレストランの大きなテーブルの上で上演しました。若い人たちがテーブルの上で動くのは別に心配しませんが、足元もたよりなくだんだん視界もせまくなっている彼女たちです。当人も見る側もはらはらです。また、お客さんとの距離も異常に近く、舞台経験のあまりない彼女たちはある種の極限状態にあり、それがマッカウス洞窟での極限状態と重なっていたのも、効果的な演出だったように思います。
そんなわけで、ごく少数のお客様にしか見ていただけなかったこの公演ですが、思いのほか評判がよく、主宰の安田からもいくつかの点をのぞけば興味深いという意見をもらい、安田との共同演出という形で翌2005年には東京再演、そして韓国公演に至るまでになりました。初演の作品に関して言えば、解釈も甘くすべてが直感的でまったく自分勝手な解釈をつけたりもしましたが、忘れられない作品となりました。それからの演出作業はこの作品との戦いのような気がします。
これは稽古場日誌という体で書いていますが、私は稽古場には本読みの時に一度行ったきりです。
彼らがこの「上演不可能な読む演劇」をどうやって舞台上で成立させるのか? まだ何も知りません。
いったい若い健康な男性の彼らが成立させられるのか? どんな極限状態が繰り広げられるのか?
山の手事情社の四畳半はどこまで表現の可能性を広げることができるのか? 私も劇場で見てみたいと思っています。
倉品淳子
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山の手事情社公演「ひかりごけ」
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