13/03/10

ひかりごけ

「ひかりごけ」稽古場日誌/「この作品の面白み」

この作品をやるにあたって去年、若手何人かで『ひかりごけ』の研究をしました。
そのとき、“もし自分が『ひかりごけ』のような状況におかれたら、果たして人の肉を食べるか?” というのをテーマに話し合ったことがありました。

面白かったのは、みんなそれぞれ考え、意見が違ったことです。

「食います、人だろうと死んだらそれはただの肉だから」と即答した後輩の鯉渕。
「申し訳ないと思いつつも食べるかな」と言ったのは同期の文。
「誰かが肉を削いでくれたら食べるかも、自分で死体の肉は削ぎたくない」と制作の福冨さん。
最初は「食べない、食べて生き延びるくらいなら死んだ方がマシ」と言っていたが、死んだら嫁さんに会えなくなるんだよ、と言ったら悩んだ石原。

この作品に出てくる登場人物達もその考え方がそれぞれ違うのです。
そしておそらくそこに善も悪もない。

〈食人=悪いこと〉みたいなイメージがある。
食べるとなるとなんか申し訳ない気持ちになる。
なんで悪いと思うのか考えるとハッキリした答えが出てこない。
もはや、宗教や哲学的な話になってしまう。

これがこの作品の面白みの一つで、後半の法廷のシーンはとても考えさせられる。

考え方、見方によって作品の色が如何様にも変わる作品、何色になるかとても楽しみ。

谷 洋介

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山の手事情社公演「ひかりごけ」
詳細は、こちらからどうぞ。
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13/03/09

ひかりごけ

「ひかりごけ」稽古場日誌/「稽古場という洞内」

暖かくなってきているなか、稽古場では極寒のシーンが続きます。
4人の少人数公演、小回りは利きますが疲労度は半端ではありません。
一日の稽古終盤になると目がショボショボになり、若干ではありますが意識も朦朧となります。
休憩の時には壁にうなだれるように倒れています。

壁に寄りかかりながら眉間にしわを寄せて、じっと耐えているのか、寝ているのかわからない山本氏。
壁際に真直ぐ仰向けに横たわって、死んでいるのか、寝ているのかわからない川村氏。
正座でうずくまり顔を覆いながら「うぁっ、うぁっ」と発声なのか、うなっているのかわからない斉木氏。

広くはない稽古場に、閉じ込められたような三人。
トイレから帰ってきて二足歩行をしている私。
まさに、「ひかりごけ」の洞内そのまま…。
加湿器から時折する「コポッ、コポッ」という音が稽古場という洞内に鮮明に響きます。

「な、なんだ…よくわからないがこの胸がしめつけられる感じは…」
発狂したくなりそうになるが、その体力ももはやない。

「ひかりごけ」の登場人物は何を思って極寒の地に身を寄せ合っていたのだろうか?
なにも考えていなかったのかもしれない。
いや、むしろ考えないようにしていたのかもしれない。
思考してしまうとどんどん不安になる。
今いる環境に身をゆだねながらただじっといるだけ。
耐え忍んでいるのでもなければ、なにか行動を起こすわけでもない。
まるで海岸の岩場の下に潜むフナ虫たちのように。

浦 弘毅

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山の手事情社公演「ひかりごけ」
詳細は、こちらからどうぞ。
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13/03/08

ひかりごけ

「ひかりごけ」稽古場日誌/「上演不可能な読む戯曲」

『ひかりごけ』は私が初めて本格的に演出というものに挑戦した作品です。
2004年今から9年前、ある山の手事情社のワークショップで知り合った3人の50代から60代の女性と、たくさんの戯曲の中から実際に読んでみて選びました。

文庫本になっている有名なこの作品は、作者(私)が北海道のマッカウス洞窟に実際にひかりごけを見に行き、実際に起こったこの事件について調べる様子を描く随筆形式の前半と戯曲形式の後半に別れていて(さらに戯曲部分は1幕、2幕に分かれている)、前半の終わりに?上演不可能な戯曲″?読む戯曲″という形容がなされています。

確かに、どんなにおなかが空いていたとしても、人肉を食らうまでのすさまじい極限状態を舞台上で表現するのはとても難しく、どんなに俳優さんが上手でもそのままやってしまうと何だかうそくさく感じてしまう。

私はこの登場人物(4人の海の男たち)をふくよかなシニアの女性たちで上演することで実際とのギャップを作り、そこに観る側の想像力が働かせやすい仕掛けを作りました。そして彼女たちの若いころのようには動かない身体とそれをなんとか動かそうともがく葛藤状況に、おなかがすいて簡単には動けない葛藤状況とを重ねました。

彼女たちはプロの俳優ではありませんでした。にも関わらずその年輪を重ねた深い声と簡単には動かない重い身体は、偶然にもこの作品にマッチしていたように思います。ある稽古でのこと、段取りをわかってもらうために山の手事情社のほかの俳優に手本を見せてもらった時、その身体の軽さに驚きました。その女優さんは、日ごろから鍛練を欠かさず身体に関する意識の高い人です。でも、素人の彼らの身体の重さは再現できなかったのです。しかしそれは私自身にも言えることで、私もこの作品に一番早く死んで食べられる役で出演していたのですが、プロなのにどうしても彼らの存在感に負けてました。

私はこの作品を、知り合いのイタリアンレストランの大きなテーブルの上で上演しました。若い人たちがテーブルの上で動くのは別に心配しませんが、足元もたよりなくだんだん視界もせまくなっている彼女たちです。当人も見る側もはらはらです。また、お客さんとの距離も異常に近く、舞台経験のあまりない彼女たちはある種の極限状態にあり、それがマッカウス洞窟での極限状態と重なっていたのも、効果的な演出だったように思います。

そんなわけで、ごく少数のお客様にしか見ていただけなかったこの公演ですが、思いのほか評判がよく、主宰の安田からもいくつかの点をのぞけば興味深いという意見をもらい、安田との共同演出という形で翌2005年には東京再演、そして韓国公演に至るまでになりました。初演の作品に関して言えば、解釈も甘くすべてが直感的でまったく自分勝手な解釈をつけたりもしましたが、忘れられない作品となりました。それからの演出作業はこの作品との戦いのような気がします。

これは稽古場日誌という体で書いていますが、私は稽古場には本読みの時に一度行ったきりです。
彼らがこの「上演不可能な読む演劇」をどうやって舞台上で成立させるのか? まだ何も知りません。
いったい若い健康な男性の彼らが成立させられるのか? どんな極限状態が繰り広げられるのか?
山の手事情社の四畳半はどこまで表現の可能性を広げることができるのか? 私も劇場で見てみたいと思っています。

倉品淳子

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山の手事情社公演「ひかりごけ」
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