13/03/02

ひかりごけ

「ひかりごけ」稽古場日誌/「次のステージへ」

只今稽古場では3月公演の「ひかりごけ」を制作中です。

発声後、《四畳半》の稽古をしてから台本稽古に臨んでいます。
《四畳半》は山の手事情社の演技スタイルですが、今回この《四畳半》を次のステージに上げるのが課題になっています。
10数年間付き合ってきたこの《四畳半》。
当初は新鮮かつ違和感があったモノが、今では当たり前に身体に馴染んでいます。

しかしこの当たり前が手強い。
何故ならやり慣れてそこに生理的に負荷が生じない。
いつもの身体だから思いがけない感情が出ない。
このままじゃつまらんぞ俺。

「いやいやそもそも"やり慣れている"というのが勘違いなんだ、もっと先があるハズだ」

そしてそれは劇団員と の関係性にもあらわれている。
付き合いの長い劇団員とは阿吽の呼吸で気を合わすことが出来る。
しかし初めて対峙した時はもっと相手を「見て」いたハズだ。ドキドキして。
いつの間にか相手のイメージを限定してしまっている。
それはマンネリに繋がる。
自分の中に揺らぎをつくり、常に緊張感のある関係で対峙しなければ。

と毎回男優4人が《四畳半》の可能性について実践と考察を繰り返しています。

言葉で説明出来ないモノへ昇華するつもりで。
つまり劇場でしか見れないものへ。

川村岳

※写真は、前回公演『トロイラスとクレシダ』から。

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山の手事情社公演「ひかりごけ」
詳細は、こちらからどうぞ。
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13/02/28

社会人WS

社会人ワークショップ・第五弾「ダンスなんて簡単だ!」後半コースリポート最終回

今回のメニューは今までで一番大変だったと思います。
しかしながら、参加者の皆さんは、臆することなく果敢にメニューに取り組んでおり、その姿は心打たれるものがありました。

前半は、宿題にしていた《ルパム》の個人発表です。
曲も各自で選んできてもらい、2、3分のものをとお願いしていたのですが、中には6分に及ぶ大作も!

奥田民生の「すばらしい日々」に合わせて、朝から晩まで子供の世話をする自分の姿を演じたり、
販売員として作り笑顔をすることに嫌気が差して切腹する女性を演じたり。
寸劇仕立てだったり、パントマイムの要素が強いものもありますが、音楽があり、その音楽を意識しながら表現すればそれはもう立派なダンスです。

中には全く舞台経験がない方もいて、人前に立った瞬間
「うわ、こんな感じなんだ!」
とびっくりしたりしていましたが、いざ曲が流れたら恥ずかしさは吹っ飛んだようです。 
どの方も常に堂々と《ルパム》を披露していました。

休憩を挟んだあとは、2チームに分かれて自分達だけで《ルパム》を作ってもらいました。
構成から振り付けに至るまで全てです。
しかも制限時間は一時間!
どちらのチームも移動する時間すら惜しいようで、同じ部屋の中で違う曲をバンバン流しながら血眼になって作りました。
その甲斐あって、作品はなかなか見ごたえのあるものに!
倉品がそれに少し手を加え構成し直したり、全く違う印象の音楽で踊ってもらったりして、様ざまな展開を体感したところでワークショップは終了となりました。

その後はお酒を飲みながら、皆でワークショップで作った全ての《ルパム》をビデオで見て盛り上がりました。

今回、参加者の方々が熱心に、かつ思いっきりメニューに取り組む姿を見て、改めて社会における舞台表現の必要性と可能性を感じました。
舞台は面白い!
自分が楽しむだけでなく、より多くの人にこのことを知ってもらいたいと強く思ったワークショップとなりました。

三井穂高

13/02/23

ひかりごけ

「ひかりごけ」稽古場日誌

演劇で表現することはいつも実体験のないことばかりである。
知らないことなのに、何とか感覚を駆使して、見ている人に納得してもらうものにするしかない。
燃えるような命がけの恋愛も、狂気の殺人も、巨大な運命の力よる破滅も、みんなリアルな日常の実感ではとらえられない。
想像するしかない。
「ひかりごけ」の世界も同じ。
知床の極寒の中での飢えなど、豊かな東京の日常に暮らしている僕らには想像しにくいものだ。
まして人の肉を食べることがどういうことなのか、どういう感覚なのか、どんな罪の意識にさいなまれるのか、想像がつかない世界である。
知らないのである。
知らないから、どうしても今の僕らの常識的な尺度でもって非人間的行為としてしまう。

人肉を食べること。
それは臓器移植とどう違うのか?
他人の肉体の一部を体の中に入れて生きながらえることにおいては本質的な違いはないのではないか?
そもそも人が生きていくことは、自分以外のものの命を奪って食べていくことである。
牛や豚、魚、みんな命あるものである。
ところがそれが人間である場合、それも生きている人間ならいざ知らず、死んでモノになってしまった遺体だとしても、しかも飢えと寒さの極限状態の中だとしても、
それを食べることはそれほど糾弾されなければいけないことだろうか?
僕がその立場だとすると、それが仲間の肉であろうと、いや仲間だからこそ食べてしまうかもしれない。
神に祈るか仏に感謝するかわからないが、とにかくそれは自分に贈られてきたものだからである。
時間を共有してきた仲間の肉だからこそ、それをいただくことにぎりぎり許される何かがある気がする。
ただ、それも想像でしかない。

とここまで書いて、自分は今回、死んでしまって食べられる方の役だったと気づいた。
食べる感覚ならまだしも、食べられる感覚なんて想像つくわけがないのである。
すでに死体なわけだから。
もちろんそれとて想像である。


山本芳郎

※写真は、前回公演『トロイラスとクレシダ』から。

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山の手事情社公演「ひかりごけ」
詳細は、こちらからどうぞ。
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