13/03/05

ひかりごけ

「ひかりごけ」稽古場日誌/「私にとっての孤独と我慢」

私がまだ20代前半で、東京に来たばかり、劇団に入りたての頃。
稽古や作業が連日続き、あり得ない寝不足状態にプラスして風邪気味の最悪の体調、朝9時集合のため、サラリーマンやOLで満員の電車に乗る。
ギュウギュウに押し込められた中で、やたらと重い荷物を持ち、満員電車に慣れていないせいで、手すりや吊革にもつかめない。
誰も席をゆずってくれない中思った。
誰が見ても分かる、その人の体調を示す物差しようなものはないのか。
その時想像したのは、体調の悪さや疲れ具合が、リトマス試験紙のようなもので判断できたら。
その想像をもう少し詳しく言うと、後頭部の横アタリに、割と大きめなリトマス試験紙が宙に浮いて存在していて、具合が悪いと紫色が濃くなり、寝不足や疲れ具合は茶色に変化する。
そんな分かりやすいものがあったら、席に座る優先順位が変わるのに、と。

残念ながら、ドラエもんが出しそうな、そんなリトマス試験紙のようなものは存在しない。
下車する駅に早く着いてくれ、じゃなきゃ、私の体調を誰かが気づいてくれないかなという希望。
こんなに周りに人がいるのに、まるで外国か、宇宙にでもいるような孤独。
他人に押されて体が感じる具体的な圧迫感と、説明しがたい空気のような圧迫感。
実際に今いる空間は電車のはずなのに、トイレ以上に狭いと感じる感覚と猛烈に広い空間にポツンと一人いるかのような感覚が交互にやってくる。
誰も助けてくれない、自分を助けるのは自分しかいないと思わざるを得ない瞬間。

「ひかりごけ」は、「孤独」と「我慢」がキーワードとなっている。
描かれている状況は、現在の日本と間逆。
けれど、70年くらい前の日本で、本当にあった出来事を元にしているんだから驚き。
私がパッと思い出せる「孤独」と「我慢」は、この程度。

人には、他人の状態を推し量ることができることと、推し量りきれないものだと知ること、矛盾しているようだが、両方が備わっているんだろう。
私が想像したリトマス試験紙なんてものが存在しないからこそ、演劇があるんだろう。
この作品を通じて、そんなことを思う。

演出部 小笠原くみこ

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山の手事情社公演「ひかりごけ」
詳細は、こちらからどうぞ。
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13/03/02

ひかりごけ

「ひかりごけ」稽古場日誌/「次のステージへ」

只今稽古場では3月公演の「ひかりごけ」を制作中です。

発声後、《四畳半》の稽古をしてから台本稽古に臨んでいます。
《四畳半》は山の手事情社の演技スタイルですが、今回この《四畳半》を次のステージに上げるのが課題になっています。
10数年間付き合ってきたこの《四畳半》。
当初は新鮮かつ違和感があったモノが、今では当たり前に身体に馴染んでいます。

しかしこの当たり前が手強い。
何故ならやり慣れてそこに生理的に負荷が生じない。
いつもの身体だから思いがけない感情が出ない。
このままじゃつまらんぞ俺。

「いやいやそもそも"やり慣れている"というのが勘違いなんだ、もっと先があるハズだ」

そしてそれは劇団員と の関係性にもあらわれている。
付き合いの長い劇団員とは阿吽の呼吸で気を合わすことが出来る。
しかし初めて対峙した時はもっと相手を「見て」いたハズだ。ドキドキして。
いつの間にか相手のイメージを限定してしまっている。
それはマンネリに繋がる。
自分の中に揺らぎをつくり、常に緊張感のある関係で対峙しなければ。

と毎回男優4人が《四畳半》の可能性について実践と考察を繰り返しています。

言葉で説明出来ないモノへ昇華するつもりで。
つまり劇場でしか見れないものへ。

川村岳

※写真は、前回公演『トロイラスとクレシダ』から。

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山の手事情社公演「ひかりごけ」
詳細は、こちらからどうぞ。
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13/02/23

ひかりごけ

「ひかりごけ」稽古場日誌

演劇で表現することはいつも実体験のないことばかりである。
知らないことなのに、何とか感覚を駆使して、見ている人に納得してもらうものにするしかない。
燃えるような命がけの恋愛も、狂気の殺人も、巨大な運命の力よる破滅も、みんなリアルな日常の実感ではとらえられない。
想像するしかない。
「ひかりごけ」の世界も同じ。
知床の極寒の中での飢えなど、豊かな東京の日常に暮らしている僕らには想像しにくいものだ。
まして人の肉を食べることがどういうことなのか、どういう感覚なのか、どんな罪の意識にさいなまれるのか、想像がつかない世界である。
知らないのである。
知らないから、どうしても今の僕らの常識的な尺度でもって非人間的行為としてしまう。

人肉を食べること。
それは臓器移植とどう違うのか?
他人の肉体の一部を体の中に入れて生きながらえることにおいては本質的な違いはないのではないか?
そもそも人が生きていくことは、自分以外のものの命を奪って食べていくことである。
牛や豚、魚、みんな命あるものである。
ところがそれが人間である場合、それも生きている人間ならいざ知らず、死んでモノになってしまった遺体だとしても、しかも飢えと寒さの極限状態の中だとしても、
それを食べることはそれほど糾弾されなければいけないことだろうか?
僕がその立場だとすると、それが仲間の肉であろうと、いや仲間だからこそ食べてしまうかもしれない。
神に祈るか仏に感謝するかわからないが、とにかくそれは自分に贈られてきたものだからである。
時間を共有してきた仲間の肉だからこそ、それをいただくことにぎりぎり許される何かがある気がする。
ただ、それも想像でしかない。

とここまで書いて、自分は今回、死んでしまって食べられる方の役だったと気づいた。
食べる感覚ならまだしも、食べられる感覚なんて想像つくわけがないのである。
すでに死体なわけだから。
もちろんそれとて想像である。


山本芳郎

※写真は、前回公演『トロイラスとクレシダ』から。

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山の手事情社公演「ひかりごけ」
詳細は、こちらからどうぞ。
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