13/12/20

演劇的生活No.1

『少しおかしな事』

ある日、道行く2人のサラリーマンの「お前の営業は強姦のようだからな。頼りにしているぞ」と、揚々と出勤している姿。
電車のつり革に傘をぶら下げボクシングを始める男。
満員電車内で無理矢理化粧を直そうとした結果、なかなか致命的な顔に仕上がる女性。
何も映っていないノートパソコンを膝に、何やら腕組をしながら1時間近く考え事をしている男。
横断歩道を渡るときふと前を見ると8割近くの人がスマフォを見ながら突進してくる光景。
別れ話でも切り出されたか、往来にも関わらず本気で喧嘩をする男女。
道路の真ん中で寝ている人、畑に車がひっくり返って突っ込んでいる光景。

少し興味をもって何となく観察してみると面白くて続きが気になるような少しおかしな事は何時だって存在している。そしてそれがたとえ本人たちが気づいていなくても、いかに偶発的な出来事であったとしても、誰かを引き付けているようなことには全て劇的な何かが起きていると言っても良いのではないか。さらにそれを上手く自分のネタとして何とか上手く取り込めれば良いのではないか。
そして今日も少しおかしな事に出会えることを楽しみにしている。

鯉渕翼

13/12/18

演劇的生活No.1

『日常の生活』

少し前まで、演劇に限らず、芸術ってものは、あの世の様な所から現実の世界にイメージを持ってくる仕事だと思っていました。そのためか、芸術に興味のあった私は、昔から自分の日常をおろそかにする所がありました。

「現実を見たくないから演劇をやっているのか…? 」とか、「何かを否定したくてやっているのか? 」とか考えてるうちに、ある時、凄く恥ずかしい気持ちになりました。それって日常と演劇を乖離させているんじゃないか? と。
何故演劇をしようと思ったのか? 何に惹かれるのか? そんな疑問に、自分の中で答えに繋がっていく感覚が芽生え、ここ最近、日常を改めて感じようとしています。それは、「自分の日常」であったり、「身内の日常」であったり、「誰かさんの日常」であったり、普段生活をすればあたりまえに感じる日常を否定しないで過ごすことです。

具体的な事であげると、家族に会ったり、美味しいものを食べたり、誰かにお礼を 言ったり、文句を言ったり、電車に乗って何処かに出掛けたり、うちで家事をしてゆっくりしたり、テレビを見たり、「誰かさんの日常」を話して貰ったり、会話を盗み聞 きしてその人の日常を覗いてみたりします。

なぜ、改めて感じようと思ったのかは理由があります。この間、劇団の先輩がえずこシアターの市民劇団を演出した作品を観に行きました。その公演を観て、何となくそうなんじゃないかと思っていた事の確信が持てたのです。「生活をしている人間は魅力的なんだなぁ」という事でした。
もちろん、演出の力があっての公演でしたが、演者さんを観てそう感じたのだから、きっとそうなんだろうと思います。

「生活をしている」というのは、私生活が垣間見える事でも、癖が見える事でもありません。その人の生き方が醸し出している雰囲気の事。簡単に言うと「生き様」なのですが…。その「生き様」が作品や役と繋がっていくのが面白いと、個人的に思います。
先輩からすれば、上記の事は当たり前かもしれません。それを私はここ最近発見したのです。(もしかしたら後輩からしても今更なのかもしれませんが…)

日常を生きようとする事が、演劇に繋がる事に感じます。

中川佐織

13/12/10

演劇的生活No.1

『絵文字撲滅委員会』

私が芝居に取り組む時しばしば悩まされるのは、イメージと実際に行ってみた時のギャップである。イメージの中でワクワクするものが、実際に声に出してみた途端にちっとも面白くなく、自分にがっかりすることが良くある。役者の仕事は身体と声を使い実際に人の目に見える形で世界を表現することである。頭の中にいくらイメージがあっても、それが表に出せなければ意味がないのだ。

しかしながら、あまりにもやりたいように声が出ない私は、まずは他人としてではなく自分としてイメージ通りの声をだせるのかどうか試してみることにした。それが「メールの朗読」である。なるべく業務的なものではなく、プライベートで会話のようにかわされたものをピックアップし、夜中に1人声に出して読んで見た。
「了解!! 久しぶりに会うのたのしみだねー(キラキラ)」
「それどうかな(笑)興味ないならないって言っちゃえ!! 」
「今日はボロボロだったよ(。_。)もう嫌だぜーっと(爆)!! 」
携帯の明りを頼りに、夜中にベットで呟く女が1人。
「ぜーっと(爆)!! 」「ぜっ。。。」「ぜーっと」「ぜ、ぜ、ぜ。。。」
全く上手く読めません。これはどういうことでしょうか、自分で書いた文章が自分で読めないなんて。

よく分からないのですが、例えば凄く疲れていたとします。そんな時友達から明るいメールが来たとします。そうしたら、明るく返しますよね。その時、相手が本当に目の前にいたり、せめて電話だとしたら、自分の体自体も元気にふるまわせる必要があるんです。でないと場の空気が壊れてしまう。だけどメールの場合、嘘でも明るい言葉を使ったり、絵文字1つで元気な自分が作れる。それは自分の身体ではなく、頭を通った言葉なんです。最近はもっと便利なLINEのスタンプなるものが出来て、私の代わりに実に見事な表情と身振り手振りでその場に適した感情を表現してくれます。自分を脱したいという欲望を、スタンプは実に見事に叶えてくれる優れモノです。色気の無い私も、べティちゃんのスタンプを使うだけで少し色っぽくなった気がしたり、世にもかわいらしい笑顔を作ってくれたり。

そういえば昔お付き合いした方に「メールでやりとりしてる時と、会った時の感じが違うね」と言われた事がありますね。実際会ったら思ったより暗かったみたいです。

という訳で、世の中恋人との別れすらメールですむ時代です。どんなに悲しくても、「今までありがとう(笑顔、きらきら)」と送れば、涙を見せずに済む時代、どんなに悪いと思って無くても「深く落ち込んでいるクマ」のスタンプを送ればそんな感じに見える時代。
これは、ハッキリいって危険です。今、きっと大半の人が「クマとウサギ」に自分の感情を表現させているのではないでしょうか。いいのか!? 「クマとウサギ」でいいのか私!? ええ、お分かりの通り、その大半というのは私の事です。「穴からひょっこり無垢な笑顔で笑うウサギ」この絵で何度自分をごまかした事か。

長々と書きましたが、つまりこれは自分への反省文です。役者たるもの、絵文字やスタンプで自分を表現するなと、適当な文章も書くなと。書く時はその時の自分の感情を確かめるべく即その場で朗読しろと、そういう事です。

この場を借りて、今後スタンプの乱用をしない事を誓うと共に、いつの間にか友達の印象が「人間でないもの」にならないよう、皆さんもどうぞお気を付けて。

小栗永里子

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