13/11/12

演劇的生活No.1

『自分の身体を知る』

自分の身体ってなんて不自由なんだと嫌気がさしてくることがよくある。
思い通りにいかない身体、五体満足である分見失っていることも多い。

自分の身体を知るためには他者の観察から自分との比較していくことが近道だと常に思っている。
そんな思いあってか、電車に乗っている時や人と待ち合わせしている時に歩いている人や、つり革を持って立っている人の身体を覗き込む習慣がついてしまった。特に背面からのお尻を覗き込むようになってしまった。決して下心あってのことではないことを付け加えておく。
腰はやはり身体の要であり 、ここの動きが不十分だと末端(足先、指先、頭)の表現に大きな影響があるように思う。

例えば、プロ野球選手の盗塁する瞬間を観察すると(唐突かもしれないが)、低い姿勢で構え、盗塁をする瞬間、一見、右足から動いているように見える。が、実は違う。もし足から動かしている選手がいたらこれは下手な選手だ。あと、低い姿勢で構えている時に右側に体重が乗っていいる選手がいたら、これもおそらく下手くそな選手だ。(ここでは野球のセオリーはいったん無視します。)

私が考えるかぎりでは(医学的根拠は全くないことを了承してもらう。)低い姿勢で、両足の親指の付け根に軽く体重を乗せ、右側:左側=4:6(3:7でもいい)の割合にし、両膝を内 側に軽く折り、膝を内側から足先に向かってに螺旋を描くように力を入れた状態でキープをする。
その時の骨盤の角度は前傾姿勢で20度くらいだろうか? 人によって多少違うかもしれないが、深すぎると上半身が屈折しすぎ、走行する進行方向へのギャップが出てき、走りづらくなる。であるから力まなく、体が居着かない、いい角度が好ましい。

これが良い盗塁姿勢のアイドリング状態になる。上半身はリラックスしているが、下半身は両足ともやや内側に力がかかっている。わかりやすいかわからないが、プロペラをゴムで巻いて飛ばす飛行機のゴム部分が両足に別々にある状態。

上半身のリラックスとは脱力ではなく、下半身からの力の伝達を速やか に受けるための状態である。例えば歯車が動き出したら他の歯車が時間のロスなく動くものに近い。身構えるのではなく待機している、静まった感じである。

次に盗塁をする時だが、このアイドリング状態の身体で動作に移るときにまず速やかに右足の膝の力を内部から抜いていく。そうすると左側の膝の力の割合がより大きくなるので体が自然に右側(二塁側)に向き始める。骨盤は上斜め右に少し起きた状態になるので、上半身が起き上がってくる。この時上半身は起こしすぎないように注意しなければならない。
その後、左足の親指の付け根から内転筋を使い、左足を進行方向に出し、骨盤を使って上半身に力を伝達し、走行となる。この時骨盤から力の伝達が不十分だと、姿勢が上 りうまく力が伝わらなくなったり、先に肩に力が入り、無理やり腕を振る動作をしてしまい、力効率を落としてしまう。あとは風の抵抗を考えながら姿勢を作っていけば、足が遅くてもある程度速く走れる。これは塁間(18,44m)を走るものであって、距離によっては違う対応をしなければならないだろう。

うんちくを並べたが、ひとつの動作には全身の連動を考えながら、日々研究しないと納得いかなくなってしまった。演技をやる上で内面を伝えるためには身体から湧き出るものを効率よくどのように表現するか? に関わってくる。

電車でつり革に捕まっている乗客の背面を見ると、落ち着いている人と急いでいる人、何か考えている人やイライラしている人が分 かるような時がある。普段私たちは概ねその人の肩口や顔などで判断するが、よくよく観察してみると、腰や腹から動き始めていることがよくある。

内面を描写する日本語には「ハラ」が使われることが多い。「腹がたつ」「腹に一物」「腹の虫がおさまらない」「腑が抜ける」などなどこのことをとっても腰、腹はとても重要だといえる。

演技において自分とは違う人になることは表面的なものではなく腰や腹がどうなっているかが重要と考える以上日常で観察せずにはいられない。そんな毎日である。

浦弘毅

13/11/07

演劇的生活No.1

『むすめ』

今年の12月で2歳になる娘。
夜中にいきなり「それ貸してくだしゃい」というので振り返ったら、寝言だった。
また1時間くらいして、「あ、ワンワンだワンワン、あはは」って、また寝言。
赤ちゃんは時間の概念がなく夢はみないらしいので、娘の頭のなかも情緒もいま劇的に成長しているみたいだ。

最近の口癖は「何だこれ」で、はじめて見るもの、目に入るもの、全部を知りたがる。
この前、テレビをリモコンでつけてあげたら「どうもありがと」とさりげなく言うし、電話の子機を持ち歩きながら「あ、はい。はい。もしもし? 」とかペコペコお辞儀しながらやってるんでびっくり。
ほとんど毎日のように新しい言葉を覚えてくる。

この旺盛な好奇心と身につくまで練習しまくる熱心さ、頭の下がる思いである。

娘ができてから、どうして私はこうなんだろうと悩むことがなくなった。
人は生まれて、その環境のなかで人間に成っていくんだとつくづく感じる。
なので、こんな私がもしも幸せなら親や周りに感謝だし、どうして自分はこんな奴なんだろうと思っても自分自身を責める必要はない。
生まれてからここまでの結果が今の自分なのだし、ひとりっきりでここまで育てるわけがない。
娘ができる前の自分は孤独をはき違えていた気がする。

それでも…劇団にいても、私生活も、現実ってやつの厳しさにさらされる毎日だ。
ちょっと感情的になってしまったとき、娘がいきなり私の頭を抱いてポンポンと、何も言わず、抱きしめてくれた。

ほんとに驚きの毎日である。

越谷真美

13/11/01

演劇的生活No.1

『作法』

最近病院のお世話になることが増えているんだけれど、高い診察料だけしっかり取られて、なんだか不満が残ることが多い。
どうも患者個人それぞれの体の事情と関係なく、マニュアル的に診療が行われているような気がする。

行くとまず、問診票を書かされる。
書くのは構わないのだが、質問事項がやたらと多い。
しかも長々と書かされた上に、診療はあっさりマニュアル的に済ませられることが多い。
もちろん治らない。

診療の効率なども考えると仕方ないのかもしれないが、そもそも優れた治療者であれば、問診票などいらないはず。
患者とのやりとりを通して巧みに患者の体にチューニングしていく。
世の中には超能力者みたいな人もいて、そんな人は症状を言わなくても患者の姿を見たり声を聞いた途端、悪い個所をおおかた特定出来るものだ。
別に不思議でもなんでもない、たぶん治療ってそういうプロセスのことであるはず。

まあ、それほどの名人でないにしても、もう少し今ここにいるオレの体をしっかり探索してくれよと思う。
決まった自分のやり方を当てはめるているだけなんじゃないかな。

最近ラーメン屋でも、注文の際に好みの調理の仕方をお客に選ばせるところが多い。
どこの店だったか忘れたが、極端なところは、紙とペンがあらかじめ用意されてあって、お客に記入させていた。
麺の太さは、細麺、普通、極太。
麺の柔らかさも、やわらかめ、少しやわらかめ、普通、少し固め、固め、バリカタまで。
油の濃さはあっさり、薄味、普通、こってり、濃厚…。
ほかにもニンニクの入れ具合やサービスのトッピングをどれにするか…。
それらを問診票やアンケートのようにひとつひとつチェックを入れていって、店員に手渡す。
疲れる。

この店の味を知らないんだからわかるわけないだろ!!
何でもいいから旨いと思うものを出してくれよ、オレに対して。
そんなふうに思う。

こういうのは一見すると、お客の好みに細かく応えていて、お客さん本意のようでもあるけど、むしろ形を変えたマニュアルなんじゃないだろうか?
自分たちが作業しやすいようにパターン化しているだけだろうと思う。
自分のやり方の押しつけだ。
今その場その瞬間のお客に対して丁寧に味を提供しているわけじゃないと思う。
具体的な現実のお客さんはいないのだ。

何らかの職人と呼ばれる人であれば誰でも、自分が作るものや提供するものには尋常じゃなくこだわるものだと思うが、そもそもこだわることが出来るというのは、お客に対する意識が明確にあるからだと思う。
自分のやり方を頑固に押しつけているわけじゃない。
主体はお客にあるのだ。
自分のやり方なぞ通用しない。
自分のやり方を投げ出した結果、長い年月を経て職人技の呼ばれるようなものが身についていくのだと思う。
職人技という技術や能力が独立してあって、それを訓練して職人になるわけじゃない。

翻って演劇に目を向けてみる。
集団も俳優個人も、自分たちがやりたいようにしかやってないことが多いんじゃないかな。
芸術性にこだわっても、自己満足。
わかりやすくても自己完結の表現になってしまう。
そもそも表現だから自分のやりたいことをやるんだけれど、やりたいようにやるというのとは違うはず。
舞台でのこだわりを観客に伝えるのはホントに難しいと思う。

誰もがメソッドと呼ばれるいろんな稽古方法に取り組み続けるが、果たしてそのことでホントに有効な俳優の職人魂が身につくものだろうか?
それに取り組みさえすれば上手くなるというようなメソッドは実はないのだと思う。
結局自分のやり方でやってしまうだけだからだ。

そうではなくて「作法」があるはずなのだ。
観客に自分を差し出すというような。
演劇に職人技があるとしたら、観客に自分を差し出すということを延々くりかえした結果出来上がる何か、なんじゃないだろうか。
巷にあるいろんなメソッドはその作法を行うための最低限の準備に過ぎない。
そんなことを感じる。


山本芳郎