13/11/27

演劇的生活No.1

『自家発電』

履歴書には書けない私のセールスポイント。
それは、ネガティブ。

ただ単にネガティブに暗く生活を続けているわけではないので「ネガティブが服を着て歩いている」という表現は間違っている。

土台がネガティブなので、その土台から私が派生しているわけだから「ネガティブな足が靴を履いている」もしくは、「ネガティブな心臓」と言った方が腑に落ちる。

私をスマートフォンに例えると、機種は「ネガティブケータイ NEGAXY」とでもなろうか。
そのスマホにはアプリが搭載されており、
「極度の寂しがり屋」
「やるきでないスイッチ」
「帰りたいッター」
「深SAKETIME」
「無料診断 諦めるべきか寝るべきか」
など、お世話になりたくないラインナップが並ぶ事となる。

補足すると、「帰りたいッター」は家にいても「帰りたい・・・」と呟かれており、
更に実家にいる時すら更新は止まらない。
どこに「帰りたい」のか分からなくなっている様だ。

ネガティブになる為のネタはどこにでも転がっていて、今日なんかは買ってきたラザニアをひっくり返してしまい「お前もか、ラザニア…!」と、カエサルさながらの絶望に浸って大泣きしてしまった。

くだらないエピソードは尽きない。
妄想の中で自分を卑下し、多摩川に入水しした事もある。
腰まで浸かったところで「こんな綺麗な風景では死ねない!」と逆にテンションが上がり、踊りながら家に帰ったエピソードは記憶に新しい。

皆さんがザワザワと引いていく音が、すでに聞こえる。
しかし、意外とそれは平気なのだ。
なぜなら、常に最悪のパターンを想定しているから。
まず、劇団の検閲の時点で「なんて事を書いてくれてるんだ!」と怒られる事は想像済。
そして仮に、この文章が皆様の目に触れた後、周囲の私を見る目が気の毒そうな眼差しになる事も想像内だ。

そう。私の一番のネガティブポイントは、常に最悪のパターンを用意している事。
そして性質が悪いのが、時として、それが自分の中では現実として扱ってしまう事。

例えば、恋人が出来たとする。私は相当早い段階で、別れを想定してしまう。
もちろん、別れたいわけではない。
でも、好きと不安は比例し「裏切られるに違いない」という悪魔を捻出する。
一向に楽にならないし、自分を苦しめるだけの存在だ。
お陰様で、安定した幸せの中に浸る時間は少なく、その一人相撲は死闘を要する。面倒な奴だとお思いでしょう。まったく、その通り。

しかし、不思議な事に、こんな戦う必要のない一人相撲により、常に激情や葛藤を抱えていられるのも、また事実。
その矛先は8割方演劇に向かい、案外自分を支える為の要素となる。
凹む力を馬力に変えて「なにくそ。生きる!」と演劇に向かってきた。
「ネガティブ由来の自家発電」。
この装置は、たまに故障してリコール商品ともなるが、なかなか良いバランスで稼動している。

まだまだ改良の余地はあり、今後のリコールを防いでいきたいとは、常々思っている。

辻川ちかよ

13/11/21

演劇的生活No.1

『Four & More』

うっかり出会ってしまったことで、その後の人生、時間の過ごし方が大きく変わってしまうことがある。自分にとってその最たるものが演劇なのだが、それはひとまず置いておいて音楽の話だ。

大人になったら味覚が変わると親に言われたことが思い出すが、音楽の好みも大人になったら変わるのだろうか。もうかなり大人なのだが、演歌には今のところそれほど執着心がない。
試しに自分のiTunesを見ると腐るほどある曲のうち、演歌のアルバムはたった1枚。
梅沢富美男の「夢芝居」だけである。
音楽ってやつはジャンルによって曲想がかなり違い、畢竟、興味がないものはジャンルごと無視することとなる。
演歌だけじゃなく、結構いろいろと無視してきたような気がする。
しかし、大人になって、はまったものがある。
ジャズってやつである。
自由が丘のTSUTAYAで視聴したたった1枚のアルバムが俺の人生を狂わせる。

マイルス・デイビスの「Four & More」。

吹きまくるマイルス、叩きまくるトニー・ウィリアムス。
元来のロック好きのつぼをぐいぐい押しまくる。
トニーのシンバルがビシッー、ビシッーと鳴るたび、自分の背中をピシャー、ピシャーと叩かれているようなマゾな気分が味わえる。
そして、マイルスがピーヒャラ吹くメロディの格好のよいことといったら無い。
ハービー・ハンコックのピアノもスパイスをかなり効かす。
高校のときぶち当たったMETALLICA以来の衝撃。
ベースがよく聞こえないのもMETALLICA風か。
ぜひ大音量で聞いて欲しい。

そこからマイルスだけじゃないジャズ遍歴が始まったのだが、マイルスの向こうには、本質的な新しさを持った何かがあった。

演劇もこうありたい。
演劇に触れると、今まで知らないこんな豊かな世界が広がっているのかと、そう思っていただけたら望外の幸せです。

斉木和洋

13/11/18

演劇的生活No.1

『価値』

あるお店に打ち合わせに行った時、一合12000円の日本酒がありました。ランチは1000円。夜飲みに来たらどうなっていたことか。まだ見ぬ世界はあるものです。試飲はさせてもらえないだろうか、もしくはおごってもらえないだろうか。とはいえ一合1000円の日本酒を呑まされて12000円だよ、と言われてもきっと私にはその嘘をみぬけないでしょう。相手の方に飲んだ事があるのか、どんな味なのか聞いてみると「水みたい」との回答がありました。では水でよいではないか、と思うのは私の僻みでしょうか。しかし1本何100万、何1000万もするワインもあるのだからそれに比べれば安いのかも知れません。その日本酒は年に12本程度しか造られず希少価値も付与してそれだけの値がつくのだそうです。当然のことながら市販はされていません。直接蔵元まで行って買い求めなければならないのです。品数の少なさ、現地に行かないと手に入らない手間、そういった珍しさが人の興味をくすぐります。また商品の値打ちを決めるひとつの基準にもなっているのです。当たり前といえば当たり前の話ではありますが。そうはいっても味がよくなかったら元も子もないというのも自明の理です。

話は変わりますが、近頃のお芝居の値段は高いように感じます。10〜15年前くらいはもう少し相場が安かったようにも思います。私のまわりの環境が変わったのか、演劇の物価があがったのか。それとも私の思い込みだったのか。それはよくわからないのですが、現在のお芝居は最低ラインが3000円。それ以下は学生演劇か社会人劇団のお芝居くらいしかあまりみかけません。物の価値をつけるのは誰なのか。客か、売り手か。演劇に関して言えば売り手のように思えます。自分たち以上の価値をつけているように思えてしかたがありません。採算をとることに躍起になっているのではなかろうか。それもいたしかたないことなのかも知れませんがこのままではお客さんは演劇から離れていく一方でしょう。そこに対して戦っている劇団は少ないのではないかと思います。

例えば一合12000円の日本酒は買い取りに行く交通費と人件費、その他の費用を鑑みてその値段になったと思うのだがそれは本当に妥当なのだろうか。もっと安くてもよいかも知れないし、ひょっとしたらこれでもかなり格安なのかも知れません。私のまわりの人達にこの日本酒の値段を話すとみんな一様に「高い」といった反応がかえってきます。あまり聞くことのない値段に対してどう反応するのか。おそらくごく一部の人間だけが興味をもって味わいにきてくれるのでしょう。そうして「良い」となったらまた来る。値段が高くてもまた来てくれるくらいの美味しい役者というのはどのようなものか。どのような生活や仕事をしていても自分に対して知らず知らず人間の価値が見出されるものです。私はそれがとても嫌だなぁ、と思うのですが、これはどうしようもないことなのだと一合12000円の日本酒なんてものを見るにつけ考えさせられます。

とりあえずその日本酒にそれほどの価値を私は見いだせるか。 私の価値基準は他人とどう違うのか。それを知ることも役者として重要だと思います。そしていつの日か、一合12000円の日本酒を飲みにいってやろうと思います。


石原石子