14/01/21

ドン・ジュアン

『めざめよわたしの野性』

ドン・ジュアンは実在の人物だったようで、相当迷惑な奴だったのではないかと思われる。
こんな男が近くにいたらたまらない。
自分の欲望を遂げるためなら平気で人を殺し、
女を口説いては捨て、
神を冒涜し、
借金は踏み倒し、
父親には悪態をつき、
捨てた女の兄弟が追ってきたら、せめて逃げたら?と思うけど
真っ向から「あなたの妹とは一緒になれない」と宣言する。

でもやはり、悪人は、遠くから眺めるぶんにはおもしろい。
人間って、ここまでいけるんだな。と思う。
原始的なエネルギーを感じる。
実在の人物がそこまでの悪人だったか、あるいはそれ以上だったかは分からないが
少なくともモリエールは、この人物に喜劇的な愛情を持って描いているように思われる。

でもこれは、わたしたち日本人には相当にハードルが高い。
アフリカの人は視力がものすごい良いっていうけど、
そういう意味で、
日本人も昔は空気に響く下駄の音で、時間や季節を知ったというけど、
そういう意味で、
原始的なエネルギーが、私たちって退化しちゃってるように思う。
退化しちゃってるから、退化した感覚で頭脳で、この戯曲を解析しようとすると
ハマる。
まず、原始人になることだ!!!
どうやって!?
わからん!!!
この芝居を作っていく過程でものすごくイライラしていた時期があって
友人に「叫んでみたら? 」
とすすめられ、まだやってないけど。
叫んでみようかな。
発声の訓練ではなく。
ただ叫ぶ。
「うおお更年期なのか!!!! 」
めざめよわたしの野性。

大久保美智子

14/01/20

ドン・ジュアン

『声無き声』

今回の『ドン・ジュアン』の出番に、私のセリフはない。
今公演の中で一番の若手だからね。そこからだよね。
そう考えてしまうだろう。

どっこい、どっこい。
セリフもなく、ト書きに動きも提示されず、最悪居なくても成立してしまう役を、いかに効果的に存在させるのか?
とある先輩には、一番難しいかもしれないと言われた。


自分を存在させるにはどうしよう…?
そのシーンで強調させるべき事は、強調させねばならない。
その上で、シーンに彩りをつける役どころになるのがベスト。

ふむふむ、そこをヒントに考えてみよう。

そして、最初の段階で、自分は道化、もしくは風景に色を増す為の存在なのだと思った。
これでは演出に怒られるであろう・・・という事をあえてやってみたつもりだが、いずれも中途半端。
やがて、ネタ重視になりすぎ、目指すべき場所に繋がらなくては意味が無いと気付く、という、魔の迷宮スパイラルに突入。
しかも、そんなスパイラルな中、肝心な《四畳半》ルールの中で、それを成立させなければいけない、という棒高跳び並のハードルが出現する。


やがて、要領の悪い考え方をしたばかりに、肝心な事を感じていなかった事に気づかされる。
その役として「その場」に居ること。


例えば、学生時代。
女子はグループをつくる。
気が合うからか、そうでなかは別にして、まるで義務の様にグループを作る。
私はもの心がついた頃から、そのグループ制が苦手であった。
「その場」にいる感覚も得られない上面な世界で、自分はどう存在すべきなのかを探る「居場所」を感じられない毎日。
辟易した。
このように、日常生活然り「居場所」を持った人と、そうでない人とでは、居易さと影響力は違う。

人間関係も然り、「その場」にいるべき人間でいなければならない。
それは「リアル系」の演劇然り、《四畳半》であってもだ。
このままで、ほぼ初挑戦となる《四畳半》で、自分の「居場所」を獲得しなければ。


セリフがなきゃ、「居場所」は無いのかい?
違う。

チャップリンやバスター・キートンも見尽くしてネタを探したが、大切なのは、ネタじゃない。
どんな魂で存在するか、なのだ。
その魂を、いかに明確に見せるのか、なのだ。


声を発する事が原動力で演劇の世界に入った私が、
声を出さずに自分をアピールする。

声無き声で、与えられたその場所で、緻密に叫ぶしかない。
このトライアルは、一見地味だが、過程は気が遠くなる程に壮絶なのです。

辻川ちかよ

14/01/19

ドン・ジュアン

『ドン・ジュアンは何に向かい、何をみようとしたのか』

あけましておめでとうございます。
浦です。
新年と言えども早速稽古をしております。
今回の『ドン・ジュアン』とても難解です。

どうやれば世界が見えるのか?
未だ、迷走中です。
ここ数年、俳優業の恐ろしさにどうやら自分がやられそうです。

演じることの難しさ、恐ろしさってこの世のものとは思えない位きついです。
演劇に限らず専門分野で生きる職業ってこんなものなのだろうか?

なにが楽しくって俳優をしているのか?
演劇が本当に好きなことなのか?
考えれば考えるほど逃げ出したくなります。

でも、一つ言えることは、私はこのような演じる環境をもらえることによって、生意気な言い方をすれば、代弁者としていられることの快感というか、責任というか、役割というか、そんなものがあるわけです。
そのためには逃げ出したいということがなんとちっぽけなことか?
とも思うわけです。
複雑です。

わたしはなにを伝えたいのだろうか?
なんの役に立ちたいのだろうか?
それとも立ちたいと思っていないのだろうか?
苦しいです。

山の手事情社の『ドン・ジュアン』はただの放蕩貴族の物語ではありません。
彼は何に向かい、何を見ようとしたのか?
現代の私たちにも通じる作品になるよう必死でやっていきます。
是非、劇場までおこしください。

浦弘毅