14/01/17

ドン・ジュアン

『分からないことだらけだけど』

山の手版『ドン・ジュアン』、今はまだどこに決着するのか分からない。
見えたと思ったらすぐまた覆えされてしまう。
創っていても分からないことだらけで出来上がるのかどうか不安と恐怖に苛まれる日々。
でもこの作品にはとても大きなエネルギーを感じる。

私が初めてモリエール作品を見たのはフランスのアヴィニョン演劇祭に行った時でした。
道でたまたまもらったフライヤーが『モリエール』というタイトルで、内容もよく分からなかったがモリエールなら面白いに違いない! と見に行くことにした。

会場は幼稚園の校庭の隅っこに作られていた。
簡素で小さな舞台。
真夏の真っ昼間に、しかも野外だからめちゃくちゃ暑い。
俳優は4名いるようだ。
既に舞台に座ってメイクしている。
顔を真っ白に塗りたくり、口に真っ赤な口紅を塗っている。
でも暑いから汗だくで、メイクした瞬間からポタポタと白い汗が垂れている。
なんだか衣裳も汚い。
客席も狭くて俳優達と近いので見たくないところまで見える。
この時点で私のヤバイセンサーは働いたが怖いもの見たさで見ることにした。

俳優たちが演じているのはどうやらモリエールさんとその周りの人達で、モリエールの作品を次々やっては失敗するドタバタ喜劇のようだ。
身体の大きな俳優達が一生懸命コミカルな動きをしているのだが、舞台が狭くて動きにくいらしく、俳優達がイライラしているのが分かる。
一人の俳優が飛び上がった演技をしたのだが、着地すると舞台の板がバキッと割れ足がはまってしまった。
目が泳ぎ確実に集中が切れている。
周りの俳優も動揺している様子。
しまいには客席の周りにあったホースを踏んずけて、ホースが破れ水が溢れだしワタワタしている…

と、初めて見たモリエールはなんともお粗末な芝居でした。
なんだけど、なぜかとても覚えている。
お粗末なりに、エネルギーのようなものがほとばしっていた。
人間のズルさやダメさやたくましさがよく現れていたのではないかと。
モリエールのエネルギーがそうさせるのかな。
だから今でも鮮明に覚えているのかもしれない。

『ドン・ジュアン』はとてもてごわい作品だと思う。
でもそこから、なんだかとっても強いエネルギーで私たちに何かを訴えてくる。
つかみどころの難しい作品だけど、そのエネルギーに引っ張られ、日々もがくことが出来ているのかもしれない。

なんだか今までにないものが出来そうな予感…。

山口笑美

14/01/15

ドン・ジュアン

『従僕スガナレル』

ドンジュアンという人物はかなり風変わりで破天荒な人物だけど、その従僕のスガナレルという人物も不思議な人間だと思う。

主人のドンジュアンに振り回され、ひどい目にあわされ、
「こんな旦那に仕えるくらいなら悪魔の手下になった方がまし」
とさえ言っているのに、けっして主人の元を離れようとはしない。

なぜスガナレルは主人を見限らないのか。

この問題はモリエールに関するいろんな本でもたびたび出てくる話題ではある。
逃げ出したくても怖くて逃げられないから、あるいは主人のことが大好きでストレスを凌駕するほどの魅力を感じるから、あるいは給料をもらっているから…など、いろんな表面的な理由は考えられる。

しかし結局のところ、スガナレル本人にもそのことは分からないのだと思う。
なぜ主人に仕えて続けているのか分からないから仕え続けているんじゃないか?
僕はそう思っている。
つまり主人に仕えている意味を見出すために仕えているんじゃないか?
なぜなら人は普通そういうものだと思うからだ。

実社会でも人は自分の属している集団で少々嫌なことがあったりストレスがたまったりしても、そう簡単に関係をリセットすることはない。
仕事や芸事や友人関係などでも同じだ。
生活のためとか好きだからとかいう実際的な理由もあるが、本当は分からないのだ。
その場所にいることにもっともっと深い意味を見出したいのだ。

なぜこの人たちとつきあい続けているのか…。
なぜこれを探究しているのか…。
なぜこの仕事を続けることになってしまったのか…。
そういうことはだいたいかなり後から分かるようになっている。
ああ、この仕事につくことは必然だったんだと。

今回の「ドンジュアン」のお話は事実としては約一日の間の出来事だけれども、その間にドンジュアンは長い長い思索の旅をする。
スガナレルも主人に仕えている長い年月の間に、彼なりの頭で思索の旅を続けたのかも知れない。

スガナレルの不思議さは僕ら現代人の似姿なのだと思う。

山本芳郎

14/01/13

ドン・ジュアン

『モリエール先生に聞いてみた』

「ドン・ジュアン」という作品は17世紀フランスの劇作家モリエールが執筆した戯曲で、
手当たり次第に女を口説く、男は気まぐれに殺すと勝手気儘に生きてきたドン・ジュアンという主人公が、しまいには、神に仕える女性をかどわかし、神に対して不遜な言葉を吐き、最後には神の罰を受け雷に打たれて死ぬという顛末を迎える。
今、読み直すととてもそうは思えないのだが、モリエールの作品に上演禁止はつきもので、
「ドン・ジュアン」も当時のフランスではとてもセンセーショナルな作品として受け止められ、
上演禁止の憂き目に合うのである。
現代日本に置き換えると、天皇陛下に対して不敬な態度をとる主人公が主役の作品なのかもしれない。

なんで、こんな扇情的な戯曲を書いたのか?
と疑問に思い、昨晩、モリエール先生に聞いてみた。

「王が支配するフランスでは、同じキリスト教なのに、王が信奉する宗教がカトリックとプロテスタントに分かれ、双方いがみ合い、猫の目のように日 替わりに支配者が変わった。カトリックを信奉していた王に仕えていた貴族、そして庶民が、翌日にはプロテスタントを信奉する王に政治体制をひっく り返され、新たに支配者となったプロテスタントの王の命令により殺される。こんなことが絶えず繰り返されていた。」
とモリエール先生は言うのである。

そして、「人間が幸せになるために宗教があるはずなのに、なぜ不幸を引き起こすのか?」
と。
そして、「人間が本来持っている欲望をパーっと解放した!!」のが、ドン・ジュアンなんだと。

はたから見るとほんの些細な違いから人と人とが殺しあう血なまぐさは、今のヨーロッパにもある。
自爆テロひとつとってもそうだ。
違った宗教、信条、習慣を持った人たちがひしめきあうヨーロッパでは、人が人を殺す無意味さ、恐ろしさが骨身に染みていて、きっと仲が悪いだろう に、EUなんて仕組みを作るのはよっぽど隣りの国が恐ろしいのだ。
だから、絶えず「ドン・ジュアン」のような作品を必要とするのだ。

人間の欲望を真っ直ぐに追求して、雷に打たれて死んでいったドン・ジュアンが、現代の日本のどのあたりに通じるのだろうか?
そして、それを山の手事情社がどう料理するのか?
お楽しみに!!

斉木和洋