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カルチャーポケット安田雅弘

【当世現代演劇事情5】引佐 ― 大阪/2002.3-4

【当世現代演劇事情5】引佐―大阪 2002.3-4(表紙)【当世現代演劇事情5】引佐―大阪 2002.3-4

 縁あって、プロの人形劇フェスティバルの審査員に招かれた。静岡県引佐[いなさ]町で毎年開かれている、「いなさ人形劇まつり」だ。今回で13回目、町内にある約20の会場で、30団体が70公演おこなう。ノミネート8団体から、審査員5人が優秀賞を決める。

 期待はあった。2年前金賞に輝いた「百鬼どんどろ」さんを利賀村の新緑フェスティバルに招聘したところ、とてもすぐれた舞台を見せてくれたからだ。自分の顔そっくりの等身大の人形。人形1体、遣[つか]い手1人で、遣い手みずからも演じるから、舞台上に同じ顔の人物が2人いる仕掛になる。それが交互に女性の面をかぶり、道ならぬ恋をスリリングかつエロティックに描いていた。大人の鑑賞にじゅうぶん堪える。子供向きの印象がつきまとう人形劇のイメージが少し変わった。

 今回、興味深い作品は多かったものの、人形劇の概念をくつがえすものには出会えなかった。「人形劇団ココン」さん「よろず劇場とんがらし」さんがそれぞれ金賞銀賞に選ばれた。人形劇の場合、まず人形に生命を吹き込む技術に目が行く。ところが、肝心の技術が、あまり進歩しているように思えない。歴史あるフェスティバルでありながら、ワークショップやシンポジウムがない。人形劇の社会的役割や、継承すべき技術についての議論がない。問題意識が希薄なのではと疑ってしまう。人形劇界の方々からも、表現方法の停滞、後継者不足の実状を伺った。世界のレベルに追いついていないという。

 それにつけても思い出すのは文楽のことだ。日本には文楽があるじゃないか、と。そんな折、1月、編集部のお招きで大阪の国立文楽劇場で「嬢景清八嶋日記」や「国性爺合戦」などを堪能した。文楽はもともと語り手の浄瑠璃を聞くのがメインで、人形はおまけ的存在だった。舞台中央に語り手がいて、1人遣いの人形はその両脇で動いていた。今のように3人遣いになったのはのちのことで、不案内ながら、さまざまな技術上の試行錯誤があったに違いない。現在人形は舞台中央で演技し、語り手と三味線は舞台上手にいる。足遣い、左手遣い、主[おも]遣いと3人で操る人形の技術はきわめて高い。主遣いは顔を見せ、人形と同じ空間に平然と同居する。どうしてこんなことを思いついたのか。鳥肌が立つような美意識である。その歴史を尊重し、継承するにせよ無視するにせよ、明確な距離を取ることなしに、世界に誇れるような現代日本人形劇が出てくるとは思えない。

 ひるがえって、演劇にも同じことが言える。ボクらが勉強し、距離を取らなければならないものは実は身近にある。能・狂言、歌舞伎、新劇…。先輩たちの足跡を再評価するのは現代演劇にかかわるボクらの仕事であるはず。大阪の演劇人の皆さんいかがでしょう?

 日本の演劇関係者が海外に出かければ必ず「君は歌舞伎をどう思う?」とか「文楽を見ているか?」と尋ねられる。「知らない」「見ていない」ではあまりにもお粗末。古典を背景に持った上で、現代社会に鋭い視線を向け、高い水準で演劇を語り合える環境を作りたいと思いませんか?

※ カルチャーポケット 2002年3-4月号 掲載

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【カルチャーポケット】
1999年8月から約5年半の間、大阪市文化振興事業実行委員会より発行されたフリーペーパー。通称c/p。

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