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カルチャーポケット安田雅弘

【市民劇をつくる7】演劇は料理に似ている/2003.5-6

【市民劇をつくる7】演劇は料理に似ている 2003.5-6(表紙)【市民劇をつくる7】演劇は料理に似ている 2003.5-6

 いままで、演劇とりわけ市民劇というものを、おもに作り手の立場からのべてきた。

 視点をすこし受け手のほうにうつして、「演劇ってなんだろう?」ということを考えてみよう。まだまだ生活にとけこんでいるとは思えない演劇を、どうとらえればいいのか。

 演劇は食べ物に似ている。

 そんなふうに考えてみてはどうだろう。

 舞台芸術は、空間や時間を「味わう」もの。「味わう」と消えてしまうところは、よく似ている。客席には、印象や記憶しかのこらない。いいモノをつくろうと思ったら、材料のギンミからはじめて、手間がかかる。どんなに手間がかかってもその日、その場の一瞬でカタがついてしまう。たしかに、似ている。

 勝負はあくまでも印象だから、観客の体調に左右されることも少なくない。腹が減っていなければ、「うまい」わけがない。眠かったり、気にかかることがあったり、いたくない人と一緒でも、「うまい」くない。したがって真剣な観客は、コンディションをととのえて客席にむかう。演者と演者の間はむろんのこと、舞台と客席の間に散る火花も「うまさ」を構成する大きな要素といえる。

 つまり、すぐれた舞台表現をふやすには、「味覚」の鍛わったグルメがそろっていなければならないのである。

 でもどうだろう。たいていの日本人は、テレビでこと足りている。

 ちと乱暴だが、テレビしか見ていない人は、いわばカップ麺しか食べていない人だ。

 手軽で、安価で、栄養がない。そういうものばかり食べている。いきおいテレビは、その「味覚」に迎合せざるを得ない。結果、テレビ50周年で、ハイビジョン技術を駆使しているにもかかわらず、お粗末な照明とわざとらしいセットのなか、かつらをかぶった宮本武蔵を見るはめになる。

 舞台芸術を「むずかしい」という人がいるが、そりゃカップ麺しか知らなければ、フルコースはむずかしい。作り手も気どってフルコースばかり出すのではなく、たまにはオムレツやチャーハンでいいから、「なるほどカップ麺とはちがう」と「味覚」を刺激し開発するメニューを工夫すべきだ。

 それがワークショップであり、市民劇だったりするのではないか、と私は考えている。

 「味覚」とは教養である。材料のこと、調理法のこと、うつわやお酒、その料理の地域性や歴史について、知っている方が「味わい」が深くなる。「味覚」を鍛えるには、教養を身につけることがもとめられる。

 教養のさいたるもの、演劇ならばさしずめシェイクスピアだろうか。世界の演劇人の中で現在もっとも活躍し、有名なこのお方。毎年何千ステージと上演されている、超売れっ子である。死んでなおレオナルド・ディカプリオやグウィネス・パルトロウを使える脚本家はほかにいない。のこしたテキストはおよそ37編。四大悲劇はごぞんじでしょ。「ロミオとジュリエット」は入らないですよ、ちなみに。「ハムレット」「リア王」「オセロ」「マクベス」。

 この人なぜ、こんなに人気があるのか。単純に面白い。ストーリーも面白いが、借用しているものも多いので、それだけが理由ではない。世界の描き方が面白い。すこし専門的にいうと、古代劇、たとえばギリシア悲劇に出てくるようなとてもスケールの大きな人間と、近代以降の演劇に出てくる私たちとおなじような等身大の人間の両方が出てくるところに大きな魅力がある。中野好夫の「シェイクスピアの面白さ」(新潮選書)はオススメ。

 さて、乱暴ついでにいうと、演劇なんて9割はつまらない。10本みて、1本面白いものがあったら、みっけもんだと思わなければならない。私はそう考えている。自分にとって「うまい」モノをさがすには、9割の「まずさ」を許容しなけりゃ。それが豊かさというものでしょ。ガイドブックや評論家があれこれいったって、どこまでも他人の感想。多くの人が「うまい」といっているものを追認するだけでは、自分の感性はそこでストップしてしまう。そんなに安直なところに「私にとってうまいモノ」を設定しないでほしい。ほかならない自分の「味覚」にグッとくる「うまい」ものを求める情熱こそがグルメの条件であり、自分が「うまい」と自信のもてる舞台に出会ったことがある人こそ、真のグルメと呼びたい。

※ カルチャーポケット 2003年5-6月号 掲載

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【カルチャーポケット】
1999年8月から約5年半の間、大阪市文化振興事業実行委員会より発行されたフリーペーパー。通称c/p。

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