ライブラリ
コラム
カルチャーポケット安田雅弘
前回は、演劇と「食べ物」の共通点にふれたが、今回は「スポーツ」である。
「似てるかぁ?」
という声が聞こえてきそうだ。
しかし、私はいっそ「プロスポーツは演劇である」と宣言したい。
演劇のワークショップでは、たとえばこんな実験をする。実験というより、ゲームかな。
参加者の中から二名を選んで、みんなの前で、手をつなぎ、つないだ相手にそれぞれちがった歌を同時にうたってもらう。歌詞はいい加減でいいから、元気よく。目線を相手からそらさない。
先に笑ってしまったり、歌いよどんでしまった方が負け。これを次々と、何組かやる。
当然のことながら、威勢のいい二人が壮絶なバトルをくりひろげれば盛り上がり、「何でワタシが?」と自信のない二人の場合は、低調に終わる。
「さて、みなさんが今ご覧になったもの、あるいはやったことは、果たして演劇でしょうか?」
え一っ、というどよめきのあと、演劇だ、いや演劇でない、さまざまな意見がとび出す。
「これはお笑いで、演劇ではないス」という意見には、「では、お笑いと演劇の違いは?」とつっこむ。
「テーマがないから演劇じゃない」という視点には、「人前で必死にうたう姿、というのはテーマにならないの?」と聞きかえす。
「うたっている人は日常とちがっていたから、演劇だ」という指摘には、「君はふだんお酒を飲む?」「いえ、ほとんど」「じゃあ、君がへべれけになったら、非日常だけど、それは演劇なの?」。
あえて、いじわるに問い直すことで、演劇をどのようにとらえているか、より深く考えてもらう。この作業、ちと面倒ではあるが、演劇に親しむ上では有効だ。みなさんも考えてみてはいかが。
「これとこれがないと演劇とは呼べない」という必要条件、どんなものがありそうか。正解はないので、ご安心を。
私はこんなふうに考えている。
観客がいること(この場合は他の参加者)。ルールがあること(うたって相手の気を削ぐ)。それに集中していること(「なんでワタシが」などと雑念をさしはさまない)。以上三点を満たすこと。
つまり、先ほどの実験の場合、演劇的な時間とそうでない時間が混在していたことになる。
この三つがそろっていれば、それは演劇と呼んでかまわないんじゃないか。
店先で蕎麦をうつ職人さんを、私が眺めていたとする。観客(私)、ルール(蕎麦うち)、集中する職人さん・・・そろってるじゃない。家を建てている大工さんのカンナがけにほれぼれしても、味噌汁を作る彼女の豆腐を持つ手にうっとりしても、それは演劇だと、私は思う。そして、プロスポーツ。野球であれサッカーであれ、三つとも見事にそろっている。だからプロスポーツは演劇であると私は宣言する。
上記三つの条件に、「料金を取ること」というものを加えると、蕎麦や大工さんや味噌汁は演劇でなくなる。さらに「同じ内容を繰り返せること」という条件が入ると、プロスポーツも演劇の定義からはずれてしまう。この五つの条件がそろうと、かなり一般的な「演劇」の概念に近づく。しかし私は、演劇をあまり狭い概念に閉じ込めておきたくはない。劇場で上演されるものだけが演劇ではない。むしろ演劇的なものは世の中にあふれている。私たちがそれに気づいていないだけだ。
20世紀は、演劇の概念が大いに揺れ、ひろげられた時代だが、それをすすめた一人に、サミュエル・ベケットがいる。こぞんじない? ノーベル賞作家です、ちなみに。代表作は「ゴドーを待ちながら」。エストラゴンとヴラジーミルという二人の男が、ゴドーと呼ばれる人を待っている。ただそれだけの話だが、このお芝居はそれまでの演劇の概念をひっくりかえすほどの衝撃があった。古来、ドラマというものは、人間の行動を描いてきたのに、ここでは「待つ」という状態しか描かれていなかったからだ。「私たちは待っている生き物である」という人間の存在をテーマにし、演劇の新しい可能性を拓いた、すばらしい戯曲である。
スポーツも同じだ。すぐれたプレーヤーや、強いチームの監督は、「野球とは、サッカーとは何か」ということをたえず根本から疑おうとしている。ただがむしゃらにやっていればよい、なんてわけがない。あるものごとを、できるだけ深いところまで考えるということは、たしかに手間のかかることではある。けれども、それは人生を豊かにしてくれる魔法ではないかと私は思う。
※ カルチャーポケット 2003年7-8月号 掲載
*******************
【カルチャーポケット】
1999年8月から約5年半の間、大阪市文化振興事業実行委員会より発行されたフリーペーパー。通称c/p。