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カルチャーポケット安田雅弘

【市民劇をつくる9】演劇は雑誌に似ている/2003.9-10

【市民劇をつくる9】演劇は雑誌に似ている。 2002.9-10(表紙)【市民劇をつくる9】演劇は雑誌に似ている。 2002.9-10

  演劇はどのように作られているのか。

 それは雑誌に似ている。

 つまり、千差万別。一定のキマリがあるようで、実はない。

 バタン…「編集長!」
「どうした」
「スクープです。例の強盗殺人事件の真相をつかみました」
「ウラはとれてるのか?」
「写真もバッチリです」
「よし、すぐにほかの記者連中を集めろ、緊急ミーティングだ!」
「印刷所も止めますか?」
「うん、まだ間に合う。特集を組みかえるぞ」

 こんな具合にできている芝居もある。

 皆さんよくご存知の『仮名手本忠臣蔵』。まるで写真週刊誌だ。ウソのようなホントの話。江戸時代の文楽や歌舞伎は、何人かの作家がチームになってひたすらウケル芝居を書いていた。たとえば、竹田出雲、並木宗輔といったような人たちが、タッグを組んで、元禄当時日本中を沸かせた赤穂義士の仇討ち事件(まぁ、斬られた吉良さんにしてみれば、強盗殺人事件でしょう、これは。)を題材に執筆。これが大当たり。内容を面白くするために、あることないこと織りまぜて、そのあたりも週刊誌によく似ている。

 一方、世間一般で思われている芝居作りの現場はおそらくこんな感じではないだろうか。

 作家先生が、タバコ片手にむずかしい顔をしながら、台本を書き上げる。「気に入った色がなかなかでなくてね」云々。それが印刷されて稽古場で配られる。室内なのになぜかサングラスをした演出家先生が、怒鳴りつける。「それじゃ主人公の気持ちが表現されてないだろ!」云々。いっそ灰皿も飛ばしますか。ヒュンッ、ガシャン! 俳優は、涙をにじませつつ「もう一度やらせてください」云々…。

 信念の強い出版社から出ている、かたくなな雑誌。もうあまり残ってないと思うが、こういう演劇もある。

 ところで、このイメージは一体どこから来たのか。『ガラスの仮面』かな。マンガですよ、ご存知でしょうが。これはいわば演劇版『巨人の星』。かなり現実ばなれした、ムリのある、古いタイプの現場です。

 劇作家や演出家がエラくなったのは、演劇の歴史ではごく最近のことで、せいぜい150年かそこらのこと。大体、演出家なんて職業は、日本でもヨーロッパでも、かつての芸能にはなかった。舞台の成否と損得が直結する人たち――優れた俳優か、興行責任者が兼ねてきた。そして、観客のお目当ては、もっぱら俳優に限られていた。俳優というのは、いわば「記事」だから、当然といえば、当然。いまでも、コマ劇場の北島三郎ショーや、テレビのスマスマを構成作家や演出家(ディレクター)の名前で見にいく人はいないでしょう。分類上『スター芝居』と呼んだりする。

 ともかく、あまり紹介される機会がないせいか、またはマンガの影響からか、俳優といえば、台本や演出家のいうとおりにやればいいと勘違いしている人が多い。劇場を作れば俳優は勝手に育ってくると、思ってませんか。現代劇の国立俳優養成学校がないのは先進国では日本くらい。まぁ別にヨソの国のマネをする必要はないんだけど。

 現在、大半のカンパニーは、『スター芝居』でもなく『ガラスの仮面』でもない、その中間で活動している。俳優も劇作家も演出家も、ほぼ独学状態。変な権威主義がないところはとてもいい。そして、話を戻すと、元気のいいカンパニーの俳優は、個人的にも魅力的です。自分でいろいろ考えてる。いい台本があるとか、すぐれた演出家がいるから、ということでなく、ぴんで立って面白い。

 どうやってそういう環境を作るか、そのあたりはもう少し紹介されていいはず。結論からいえば、「ひたすら自分で考える」状態を実現すればいい。

 今年も予定されているワークショップでは、そのあたりをお伝えしたい。

※ カルチャーポケット 2003年9-10月号 掲載

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【カルチャーポケット】
1999年8月から約5年半の間、大阪市文化振興事業実行委員会より発行されたフリーペーパー。通称c/p。

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