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カルチャーポケット安田雅弘

【市民劇をつくる12】演劇はノゾキに似ている/2004.3-4

【市民劇をつくる12】演劇はノゾキに似ている 2004.3-4(表紙)【市民劇をつくる12】演劇はノゾキに似ている 2004.3-4

「列車」という寸劇のはなしから。

 場面は列車の車両の一角、向かい合った座席。田舎をゴトゴト走る列車だろう。外に広がる風景は、なごやかな田園風景か、あるいは壮絶な山や海の景色か。それは観客の想像力にゆだねられている。窓際の席に、末廣という20代後半から30代くらいの男性、その隣に菱川という女性、末廣の正面の窓際には末廣の妻が座っている。

 「どうしてわかった」と末廣。「調べる手段はいろいろありますから」と妻。落ち着かない様子の菱川。末廣と愛人の菱川が旅行中の列車に、妻が乗りこんできたらしい。ありていに言えば、浮気がバレた。お茶をこぼして「ちょっと」とトイレに行く菱川。「ああいう、小柄な女性がいいんですか」「父の会社で働くのが窮屈だったんですか」妻は声をかける。無言で窓の外を眺める末廣。

 そこへ「末廣やろ…久しぶり」と声をかけて妻の隣に女性が座ってくる。末廣の大学写真部の先輩、種村。「あんた何してんの?」「仕事中で…紳士服のメーカーです」末廣の正面に座る女性が妻と知って、名刺を渡す種村。名刺を持っていない末廣。「大丈夫かいな」。種村は薬品メーカーを辞め、今はフリーのカメラマンをしている。仕事の途中だという。「末廣、カメラは?」「最近は全然」。

 菱川が戻り「部下です」と紹介する末廣。「じゃ私…」と席をはずそうとする種村。末廣は慌ててみかんを渡し「もう少しいいじゃないですか」。この場を救ってくれるのは種村しかいない。部下と聞いて「何、係長か何か? 課長ではないわな」と尋ねる種村に、妻は「専務です。私の父の会社で」「あ~。彼、優秀なカメラマンでね、わが部のエースだったんですよ」。菱川に「どお? 頼りにならない上司でしょう」。無言の菱川。みかんを食べる種村にぼそりと「いい人です、とってもいい人です」。消え入りそうだ。

 種村もようやくこの気まずさに気づく。「末廣、子供は…」「いえ子供は」という声をさえぎって「いるんですよ…できたんですやっと」と妻。「この人子供が好きで、私たちずっとほしいと思っていたんです」「おめでとう」。再び訪れる沈黙。席を立つに立てない種村。「おめでとうございます。私、行きます」と立つ菱川。末廣「え?」、菱川「あ、写真撮ってくれますか」と末廣の横に座る。事態を飲み込めず、うながされるままに二人の写真を撮る種村。「ありがとうございました」と去る菱川。追う末廣、それを追う妻。そこで幕。

 1月25日(日)、東成区民ホールでワークショップの発表会が開かれた。

 急ごしらえの客席に200人をこえる満員のお客さんがつめかけてくれた(1500円も払って)。

 昨年に引き続きおこなった演劇ワークショップ。12月から1月にかけて週末ごとに10日間。11日目に発表会というスケジュール。年末年始の忙しい時期に31人のメンバーはよく集まってくれた。やりたくて集まってるんだから、あたりまえか。

 年齢は高校生から50代の主婦の方まで。職業も保母さん、大学講師、フリーター、学生、会社員とさまざま。1回6時間におよぶ稽古でおもに《ショートストーリーズ》と呼ばれる寸劇を作ってもらった。チームに分かれて相談し、自分たちで考えて10分程度のドラマを作る。想像可能なもっとも切実な場面、あるいは抜き差しならない場面をイメージしてもらう。結果的には一人3本から4本作ったことになる。その中でできのよいものを7本、本番にのせた。粒ぞろいの作品がそろった。1本が冒頭紹介した「列車」だ。

 発表会に続いて開かれたシンポジウムでも話題になったが、劇場という場所は残念ながらまだまだ誤解されている。多くの日本人にとって、劇場は金を払って娯楽を求める場所か、ピアノの発表会やカラオケ大会を開く場所だと思われている。そのどちらでもない機能こそ、劇場が本来になうべきものなのだ。

 一言でいえば、劇場とは、おのれの人生と向かい合うために訪れる場所のことだ。

 日常から離れた視点を提供する場を作り出し、ふだん思いをいたさないことに頭をめぐらす。その機会を提供する場である。内容は、プロによる公演や演奏でもいいし、ワークショップや市民劇、シンポジウムやディスカッションでもいい。日本の劇場がそのように機能しているとは思えない。そのことが日本の劇場文化を、ひいては社会を貧しくしている。生活者は本来受けるべきサービスを受けていないと思う。

 話を「列車」に戻そう。私たちは浮気が発覚する現場に居合わせることは当事者でない限りまずない。ただ見たいという好奇心はあって、それは否定できない。週刊誌やワイドショーはそれでなりたっている。あってもいいとは思うが低劣な手段であることは間違いない。子供を失ったばかりの両親に先を争ってインタビューをすることが美しい行動とは思えない。演劇の場合、それを表現として堂々と作ることもできるしまた「鑑賞」することもできる。なぜなら、それはウソだから。「列車」で描かれた関係は現実のものではない。けれども、うまくできたドラマは真実を写し取ることが可能だ。自分の姿、自分の暮らす社会の姿、歴史も含めた人類の世界の姿、演劇は全てをウソで描くことができる。それをノゾクことは、私たちのくだす決断を狭くつまらないものにすることから救ってくれる。《ショートストーリーズ》という演劇の教養に参加メンバーが興奮する姿を見て、その思いを強くした。

※ カルチャーポケット 2004年3-4月号 掲載

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【カルチャーポケット】
1999年8月から約5年半の間、大阪市文化振興事業実行委員会より発行されたフリーペーパー。通称c/p。

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