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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方①】演劇人の『誇り』について/94年6月号

演劇の正しい作り方1/94年6月号

 一人でも多くの人が演劇の魅力に触れることができればいいと思う。その豊かさ、楽しさ、強さはもちろん、その貧しさ、いい加減さ、繊細さにまで思いを致すことができたら演劇はもっと魅力的なものになるだろう。
 詩を書くように演劇ができればいいと思う。詩が書きたいと思ったらとりあえず紙と鉛筆を用意すれば書き始められるように、それと同じ手軽さで演劇が始められればいいと思う。
 演劇が手軽でないのは決して演劇が特殊だからではない。詩を書くときには紙と鉛筆があればいいという程度の知識が演劇の場合まだ一般にないことが問題なのだ。つまり演劇を始めるとして、何をどこから始めていいかわからない。また、演劇を始めたいと思うことが、詩を書きたいと思うことに比べて何やら特殊なことであるかのような常識の思い込みに問題があるだけだ。
 演劇が特殊だとは思わない。音楽を奏でたり文章や絵にするより、場合によっては自分の思いを強く他人に伝えることができる。悲しみや喜びを自分の身体や言語でじかに表現できる、とてもすぐれたコミュニケーション手段だと思う。

 セルジウ・チェリビダッケはこう言っている。
『たしかに芸術は美しい。
  だが、美は芸術の最終目的ではない。
  それはいわば餌みたいなものだ。
  美によってそれに魅きつけられ、
  美のうしろに真実があることを知るのだ。
  真実とはなにか?
  それは定義するものではなく、
  体験するものだ。』
 チェリビダッケはフルトヴェングラーのあとベルリン・フィルの首席指導者となった。間もなくカラヤンにその座を奪われるが、カラヤンと違って自分の演奏を録音させないことで有名だ。(近頃海賊版のCDが出ているという話も聞く)
 演奏は一回きりのものだ。その日その場に来た者と共有すればいいのだ。という姿勢はコピー表現全盛のこんにち、きわめて演劇的なものだと思う。
 そしてぼくはこの人のことを思い出すたびに、演劇は『真実の体験』にとても適した表現方法なのではないかと勇気づけられる。
 そのチェリビダッケがあるインタヴューで答えている。(記憶なので正確ではないが)

質問「音楽は何を表現できるのでしょうか?」
答え「何てことだ、音楽には何かを表現することなどできない。音楽にできることはその人の独自性を伝えることだ。これよりすばらしいことが他にあるだろうか!」

 ぼくは勝手にこう考える。
 『独自性』というのは、『人間の尊厳』や『誇り』のことだろうと。「人間はこんなにもすばらしいものなんだ」、「人はこんな風に考え、生きることもできるのだ」と感じることができるものなら何でもいい。つまりはその『誇り』のために文化は存在しているのではないか。
 すぐれた文化を持つことはその国の『誇り』だと思う。いや、それ以前にその地域の『誇り』だろう(Jリーグのフランチャイズを見よ)。けれども何より直接関わっている当事者にとっての『誇り』なのではないか。そして『誇り』とはおそらく「私の存在は他人のそれとは違う独自のものだ」という自覚のことなのだ。そう思う。
 『誇り』のない生活はつらいものだ。それは生活とさえ呼べないものかもしれない。
 表現者はその『誇り』を守るために闘わなければいけないと思う。

 具体的な話をしよう。
 ぼくらの周りは親や親戚や先生や友人から反対されて演劇を続けるかどうか悩んでいる人がたくさんいる。(祝福されている人に幸あれ!)
 しかし、例えばぼくら個人に演劇で年間1億円の収入があればおそらく反対はしないだろう。むしろ積極的に奨励するかもしれない。
 考えてみれば、ただそれだけの問題なのだ。演劇表現の内容やレベルの問題ではなく、演劇は金にならないから反対しているにすぎない。つまりぼくらが一番こだわっている演劇の内容やレベルは全く問題にされていないということだ。それは大問題ではなかろうか。いや、少なくとも当事者であるぼくらがそういう周囲の価値観で演劇をみてしまっているとしたらきわめて残念なことだ。
 演劇を金にする問題は演劇の内容やレベルを上げることとはもはや次元の違う問題だとぼくは思っている。それについては別に考えていかなければならない。
 金にならないからと言って、演劇をつまらないものだと思うことはないし、ましてや金にしようとして大切な『誇り』まで売り渡す必要などどこにもないのだ。
 だからぼくらが闘っていかなければいけないのは演劇を内容やレベル以外のもので評価しようとする、ひょっとすると自分自身の中にもあるかもしれない価値観なのだと思う。

 ぼくらは演劇というきわめてすぐれた表現に関わっている。そしてそのすばらしさを味わうことのできる感受性や環境に恵まれている。
 この文章を通じてぼくらの『誇り』をできるだけ言葉にしていこうと思う。関わっているものだけが何となく了解している特殊なものでなく、関わっていない人にまでその価値を伝えることができればいいと思う。
 また、今まで見る立場でしかなかった人が演劇をやりたいと思った時の手助けになればいいと思う。
 次回は劇団の作り方について書く。

「演劇ぶっく」誌 1994年6月号 掲載

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