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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方②】劇団の作り方/94年8月号

演劇の正しい作り方2/94年8月号

 劇団のたたずまいには「新興宗教型」と「同人誌型」とその「複合型」の3つのタイプがあって、多くの場合は「複合型」である。ある種絶対的ともいえる演出家、作家あるいは役者、その人の独裁のもとに運営されるものと、気の合った仲間が集まって一種の合議制でさまざまなことが決められて行くもの。「複合型」では場合によっては独断がまかり通り、状況に応じて話し合いもする。
 どれがいいということはない。それは構成員の力関係や作ろうとする演劇、劇団を取り巻く環境などによって変わる。
 たとえば全く演劇を知らない人の中に経験者がいたら初めはその人が集団をリードしていくことになるだろう。はたから見れば「新興宗教型」に見えるかもしれない。逆に「同人誌型」劇団に能力で他を圧倒的に凌ぐ人が出てきた場合、いつしか「新興宗教型」に移行しているということもある。
 結論から言えば、どう集まってもいい。なるようになる。そういうタイプが一般にあることは知っておいてもいいことだと思うが、あまり気にする必要はない。「やりたいから集まった」それで十分なのではないか。と思う。
 問題はそれからなのだ。
 とりあえず人が集まった、でどうするか。

 ・・・おい公演打とうぜ劇団なんだからさ・・・劇場空いてない?・・・キャンセル入って4ヵ月後ならある?・・・それ押さえて・・・そうだ稽古しなきゃ稽古場どっか知らない?・・・チラシ刷るんで題名と連絡先が必要?・・・事務所はオレんちでいいよその前に劇団名決めようよ・・・もう本番3ヵ月前だ急げ急げ・・・台本ないぞ・・・オマエ書けいやだ?・・・じゃオレ書く・・・カリカリうーん・・・あバイトクビになっちゃった・・・あと2ヵ月・・・台本がわからないって?・・・チョイチョイと・・・文句言うな・・・どいつもこいつもヘボ役者のくせに・・・上達の方法?・・・知るか・・・死ぬほど稽古するしかないよ・・・装置作る金がない?・・・チケットノルマ上げよう・・・1ヵ月前だ・・・衣装どうしよ・・・音響それでいいや・・・照明は劇場入ってからだよくわからないし・・・ゲエあした劇場入り?・・・もう本番だ・・・勢いでやっちゃえ・・・終わった・・・酒酒よかったよかった・・・やっぱ舞台は魔物だな・・・明日からバイトさがそう・・・

 これはいただけない。
 が、この状況を一体誰が嗤えるだろうか。ぼくはむしろ身につまされる。こうした行動パターンがいろいろな意味でぼくらの演劇環境の貧しさを雄弁に物語っているように思えるからだ。
 まず思うのは、一つの大きな「勘違い」が横たわっているのではないかということだ。その「勘違い」に気づけばある程度問題は整理されるのではないだろうか。
 劇団を作る時にモデルとすべきものが日本の文化環境の中には発見しにくい。もちろんオーケストラには似ている。が、オーケストラの運営実態を一体どれだけの人が理解しているだろう。おそらくそこに詩を書いたり絵を描いたりするのとは違って演劇を何やら特殊なものにしている元凶の一端がある。つまり演劇創作は集団で行うものだということが案外理解されていない。
 一言でいえば、モデルは「ママさんバレー」に置くべきである。冗談で言っているのではない。
 このことはあまり語られないが、劇団は劇団となった時点で自動的に3つの仕事を背負わされる。

 一、公演を打つという仕事
 二、構成員を成長させるという仕事
 三、劇団を維持するという仕事

 第一の「公演」、これは簡単に分かる。芝居を作ること、その方法論を持つことである。問題は逆に劇団の仕事はこれだけだと思われがちな点にある。横たわる「勘違い」の正体はそれではないかとぼくは考える。
 二番目の「養成」、たとえば俳優を育てるということだ。その方法論を持つこと。これが案外なおざりにされている。本番をこなせば成長すると考えている人が少なくない。が、その考えは間違っていると思う。また成長が求められるのは俳優だけではない。
 わが国は伝統的に芸ごと習いごとを家元制にすることで希少なものにした。それはそれで必要な制度だったのだろうが、養成に吝嗇な体質を作った。教えりゃすぐ済む話を割合教えない。それはいい体質ではないと思う。
 また残念なことに現状では劇団がほぼ全面的に俳優を育てなければならない。これは国家の演劇観とも関連している。パブリックと演劇の関係が薄いということもある。それについてはいずれ考察してみたい。
 演劇が集団による創作作業だという認識がなければ、「何で俳優を育てなきゃいけないんだよ」と考えるのも無理はない。そこで「ママさんバレー」の登場なのだ。「ママさんバレー」なのだと考えれば、それがごく当たり前のことだと納得できるだろう。

 1、試合をする(勝つ)という仕事
 2、メンバーを上達させるという仕事
 3、チームを維持するという仕事

 どうだろう、しごく当然なことではないか。確かに試合をこなせばメンバーはうまくなるだろうが、やはり上達の方法として試合だけというのはかなり乱暴な意見だというのがわかると思う。ましてや大半の劇団の俳優希望者はバレーで言えばボールに触れたこともないような人達なのだ。そういう人にはいきなり試合などさせず、簡単なガイダンスを行ない、バレーの面白さ、ボールを扱うことの難しさ楽しさを実技を通じて教えるべきではないのか。ぼくもバレーはそうやって習った。
 第三の劇団「維持」だが、これはいろいろな側面がある。たとえば経済的な側面、これは当然大切だ。また場の側面、公演場所・稽古場・連絡作業拠点(事務所のこと)の確保と維持も大事。
 けれども、ぼくはこれらのことと同じくらい「緊張感ある信頼関係の維持」というのが欠かせないと思っている。極端にいえばこれさえあれば劇団は成立しうる。しかしこれがなければ、どんなに金や才能があっても劇団は維持できない。それこそが演劇が集団で創作することの意味であり本質である。
 劇団とはすなわち人間の関係のことなのである。
 「緊張感ある信頼関係の維持」、次回はそれについて書く。

「演劇ぶっく」誌 1994年8月号 掲載

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