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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方③】議論せよ(劇団の作り方2)/94年10月号

演劇の正しい作り方3/94年10月号

 少々古い話になるが、サッカー全日本の監督が代わった。
 オフトからファルカンへ。
 代わったファルカンは新しい全日本の選手やスタッフを集め、そこでまず何をするだろうか。
 おそらく話し合いをする。ミーティングを繰り返し、自分のサッカー観をチーム全体に浸透させようとするだろう。
 具体的には、世界のサッカーの水準が今どうなっていて、今後どう推移すると自分は見るか。その上で現在の日本のレベルはどの辺にあり、めざす地点はどこにあるか。一方、どんな意識改革が必要で、どんな練習が効果的か。新生全日本の代表を選んだ基準。彼らに期待する能力。スタッフのフォローすべきポイント・・・。
 選手やスタッフからも意見や質問が出るだろう。生じたずれや疑問をただすために徹底的な議論が行われるに違いない。
 少なくともその程度のコンセンサスはとってから実際的な練習に入るのではなかろうか。まかり間違っても、話し合いをすっとばしていきなりドリブルの練習から始めたりはしないだろう。

 日本代表だからこんなに話し合いをするのか。逆だと思う。日本代表だからこの程度の話し合いで済むのだろう。
 前回も触れたとおり、演劇の魅力であり本質は集団創作である。1+1が2ではなく3にも4にもなるところに面白さがある。そしてそのためには「緊張感ある信頼関係の維持」が必須だ。その緊張感を作り、信頼関係を築くには徹底した話し合いが欠かせない。
 自分の所属する劇団はどのような演劇の実現を目指しているのか。それは社会の中でいかなる価値があると思われるのか。自分は劇団の中でどういうポジションにいるのか・・・。
 以上のようなことにコンセンサスを持つべきである。その上で、いま自分に何が求められているか構成員一人一人が考え、活動しているから1+1が3にも4にもなる。だからこそ演劇は楽しく素晴らしい。
 もちろんサッカーと演劇は違う。スポーツと芸術表現の違いは勝敗というファクターの有無にある。スポーツにおいては勝者が常に正しく美しい。演劇の場合、表現レベルの高低や観客動員の多寡はあるもののサッカーほど単純に正しく美しいものの結論は出せない。しかし、集団を活動の基盤にしている点においてサッカーと演劇は共通している。1+1を3にも4にもするためには戦略や作戦の徹底が必要なのだ。1+1が2のままであるなら劇団の存在価値などないと思う。
 わが国の誇るべき伝統文化「以心伝心」を否定する気は毛頭ない。けれども「以心伝心」はすでにコンセンサスの出来上がった文化システムを守るのに適したもので、これから新しく価値を切り開いていくクリエーターたちにふさわしい態度とも思われない。
 議論せよ、議論すべきである。
 稽古時間の半分は議論に使ってもいいとさえ思う。稽古というと台本を読んだり、身体を動かしたりすることだと考えがちだがコンセンサス作りも重要な稽古である。

 なぜ議論しなくてはならないのか、ここまで書いて、我ながらまだ今一つピンとこない。
 こう考えてはどうだろう。
 演劇をやりたくても、さまざまな事情でできない人がたくさんいる。いま現在演劇ができるというのはいわば選ばれた、奇跡的なことなのだ。だから精一杯やることができるものの最低の礼儀ではないか、と。
 それは失敗するなということではない。逆に精一杯やった上での失敗はどんどんすべきだ。それは自分に不足しているものを教えてくれるから。精一杯やらずに失敗した場合、ひとは後悔するのではないかと思う。
 ちょっと話がずれた。
 なぜ議論が必要なのか。それは精一杯やるためである。言葉を換えると「偶然を必然にしていく」ためである。「この人たちとでなければできない」「この集団でなければできない」と信じていくためである。
 それはいまある出会いを最高のものにしようとする力であり、同時にいまの出会いが最高のものであるかどうか常に疑い続ける、一見矛盾した力のせめぎ合いである。その矛盾した力が緊張感を生むのであり、その結果築かれる信頼関係は固いものになるだろう。
 メンバーが集まる、台本ができる、舞台上で何らかの振る舞いがある・・・これらはこれだけならただの偶然だ。単にやっている人たちの自己満足である。自分で見出すにせよ、他人に見い出してもらうにせよ、その行為に価値が生じなければ表現とは呼べない。他人に信じてもらうのはもとより、まず自分でその価値を信じられなければ表現など成立するはずがない。
 メンバーが集まる、これはどこまで行っても実は偶然である。しかしその群れに目的が生じると、その目的に沿った行動は全て集団の使命になる。「使命」などとうさんくさいが、人間は不思議なもので、使命を感じると自分でも想像できなかったほどの力を発揮することがある。これが集団の魔力だ。軍隊にも企業にもそしてもちろんあらゆる社会にその力は働いている。だから時として周囲からは理解できないような行動をとったりする(例えば働き過ぎて死んじゃったりとかね)。その魔力を演劇という枠の中で生じさせ行使しようというのが隠れなき劇団の姿である。思い込みによるパワーで「たまたま」のできごとを「やらなければならなかった」ことに変化させる。1+1を2より大きくする秘密がそこにある。むずかしい話ではない。誠実に活動していれば思い当たるふしがあるはずだ。
 だから俳優が演出家に、また演出家が俳優に求めるのはもっぱら「優れた演劇を作る能力」=(演劇センス)に限るべきなのだ。いわゆる「いい人」かどうかなどこの際どうでもいい。酒や博打や女に(あるいは男に)めっぽうだらしなくても演劇センスさえあればそれは緊張感を共有でき、信頼するに足る演劇人なのだ。
 ここで問題になるのはその演劇センスをどうやって見定めていくかということだ。それぞれどんなことがやりたいのか。どんなストーリーが、ギャグが、衣裳が、照明がぼくたち私たちにピッタリくる表現なのか。具体的な議論には「感性の言語化」が欠かせない。
 次回その「感性の言語化」について述べる。

「演劇ぶっく」誌 1994年10月号 掲載

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