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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方④】ためしに劇評を書いてみようか(劇団の作り方3)/94年12月号

演劇の正しい作り方4/94年12月号

 芝居作りの魅力は何といっても集団創作にあり、そのためには集団のコンセンサス(共通認識)作りが欠かせない。積極的に議論を行なうことはコンセンサスを作る上で非常に役に立つ。
 というようなことを今までに話してきたと思う。
 では、議論は何のためにするのか。
 一言でいえば、その劇団にとっての「面白さを定義する」ためである。
 注意してほしいのは、議論のための議論と呼ばれるものや、ただ表面的に仲良くするための馴れ合いには何の意味もないということだ。むしろマイナスでさえある。
 「面白さを定義する」と一口に言っても、実に大変なことで、やってみればすぐにわかる。何が面白いか、10人いれば10人違う。それを具体的に演技や演出、あるいは脚本に照らし合わせて議論していく。これはとてつもない作業だ。けれども、とてつもないからといってひるむこともない。
 大事なことはそれも芝居作りの一部だと理解することではないだろうか。セリフを覚えて振り回すのが芝居作りの全てではなく、根気よく話をすることも(ただしマイナスの議論にならないよう注意!)その重要な一部だと、もし今までそう考えていなかったなら、認識を改めていきたいものだ。
 さて、議論をしていると、いろいろな言葉が必要となる。
 例えば・・・ある役の演技について演出あるいはその相手役として大方納得できるものの、まだどこか少しおかしいと思った場合。
 またはその状況で、誰かが見本を演じてみせれば相手には理解されるかもしれないが、なぜそうなるのか、なぜそうならねばならないのかを納得してもらいたい場合。
 これらの場合、その相手役との間にかなり緻密な言葉が必要となる。その「語彙(ボキャブラリー)作り」に有効な方法を今回は紹介したいと思う。
 音楽や美術など小中学校で基礎教育がなされている教科ならば、「語彙作り」など劇団がわざわざ行う必要もないが、演劇教育の皆無なわが国ではこれも劇団の仕事となる。
 一見面倒くさそうだが実に面白い、意義のある作業だ。

 ためしに劇評を書いてみよう。
 題材は何でもいい。場合によっては演劇でなくても映画でも小説でもいいかも知れない。ただ書くだけでいい。お互いそれをもとに話ができればもっといい。1本作品を決めてそれについて劇団で話をすれば、集団内コミュニケーションのレベルは飛躍的に向上することだろう。(もっとも山の手事情社ではまだそこまでやってはいないが・・・)

 「正しい劇評の書き方」

◆劇評の狙い◆

○視点(演劇観・演技観)を身につける。
 演劇人として演劇・演技を見抜く力をつけるには、同時代の演劇人が何を考え、何をしようとしているのかにできるだけ触れ、演劇センスを身につけるのがいいと思う。まずは見て、触れて、考えることである。

○自己チェック能力をつける。
 自分にある能力、あるいは不足したものは何か。それを考えるきっかけにもなる。怠けた芝居は他山の石として参考にし、優れた舞台は目標になるのではないか。

○文章力=考察力をつける。
 表現する者にとっては命ともいえる感性をできるだけ言葉にする。感じたことが言葉になれば議論の語彙もおのずと増える。一人でできる他の芸術と違って、演劇はどこまでも集団の作業である。一人芝居でさえ一人ではできない。他の人と有効なコミュニケーションをとるには語彙が豊富なことに越したことはない。

◆書き方◆

1、本数見る。
 「高いから」「忙しい」などとぐずぐず言わず、機会があれば貪欲に、どんどん見ることを勧める。

2、要素を書き出す。
 いきなり文章化せずに、箇条書きでいいから感じたことを片っ端から書き出してみる。何項目ぐらい書き出せるだろうか? 丹念に考えれば五十や百は出てくると思うが、どうだろう。

3、要素をまとめる。
 沢山出た要素を改めて眺めてみると、自分の芝居の見方の傾向や、思いがけないことに(例えば、私は実はこんな芝居が好きだったのか、といったような・・・)気づくはず。これは劇評の重要な収穫だ。自分の感性との新鮮な出会いがある。

4、文章化する。
 特に読ませる目的でなければ、3、までの作業で十分だと思う。が、文章でやるにせよ、口頭でやるにせよ何らかの発表の機会があると張りが出るのも事実。

◆注意点◆

○課題図書の読書感想文ではない。
 学校の宿題ではないのだから、無理やり感心する必要などない。面白かったらどこが面白かったのか、つまらなかったのなら、どうしてそうなってしまったのか、できるだけ深く考えることに意味がある。
 また、演劇に関係のない「想い」(例えば、演劇とは全く無縁の自分の思い出に思考が流れてしまうとか・・・)はできるだけ除外するようにする。

○演劇についての知識がないことを誇らない。
 これは演劇についての思考をより専門化するための作業と考えたい。その際、専門知識がないことは恥ずかしいことだと肝に命じよう。どこの世界に専門知識のないことを誇る専門家がいるだろうか。人体について無知なお医者さんを信用できるだろうか? 木材について何の知識もない大工さんに家を建ててもらうだろうか?

○劇評家になるわけではない。
 かといって、ぼくらは劇評家ではないし、劇評家をめざすものでもない。自分の演劇観を向上させ、演劇的な語彙を増やすといった目的からはずれた劇評はあまり意味のあるものとは言えないだろう。

 成果を期待しているよ。

「演劇ぶっく」誌 1994年12月号 掲載

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