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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方⑥】劇団にできること(劇団の作り方4)/95年4月号

演劇の正しい作り方6/95年4月号

 劇団で演劇を作っていくメリットとは一体何だろうか?
 以前述べたように、劇団は一旦作ると演劇を上演する以外にも様々なことをしなければならなくなる。構成員それぞれが成長しなければ(あるいはそういう仕組みを作らなければ)ならないし、劇団を(例えば経済的に)維持させていかなければならない。
 それは公演を打つこととはあまりにもかけ離れている。公演だけやってさっさと解散した方がさっぱりしているし、楽なのではないか。こう考えたとしても不思議はない。
 また一方で、集団のパワーということにも触れた。集団には1+1を2ではなく、3にも4にもする力がある云々・・・。それは具体的にはどういうことなのか。熱心に議論をして、劇評を書くとそれでもう劇団は劇団として機能するのだろうか。実はそうではない。では何をすればいいのか。劇団が仕組みとしてすぐれているのはどういう点なのか。今回からそれを考えていきたいと思う。
 一言でいえば、一貫した「養成システム」と「チェックシステム」の存在こそ劇団のメリットではないか。少なくともぼくにとっては、この二つが演劇上の理念(作りたい演劇)と分かち難いところにあるように感じられる。劇団という集団のあり方に魅力を感じているのはそのためだ。
 逆にこの二つがないのであれば、現在日本で一般的に行なわれている商業主義的なプロデュースシステムや、欧米のようにワークショップやオーディションを経たプロデュースシステムの方が余程合理的ですぐれた方法だと思う。(もっとも欧米のようなシステムは日本ではまだ実現しにくいと思うが・・・。)
 では、一貫した「養成システム」と「チェックシステム」とは何か?
 その前に、そもそも演劇とは何かを簡単に考えておこう。
 演劇が描くのは一つの社会である。社会とはこの場合価値観の総体と考えていいと思う。ある価値観(他の価値観との接触や衝突なども含めて)の全体像を描くことだ。というより、その気があろうとなかろうと演劇は価値観の総体を観客に想像させてしまう。たとえ一人しか出てこなくても、また舞台をどんな小さな場所に設定してもそうなる。
 ひるがえって、今私たちが生きている社会がどんな姿をしているか。演劇はそれを製作者も含め観客に確認させてしまう機能を持っている。およそ荒唐無稽と思われる価値観を想定しても(前衛演劇とはそういうものなのだが)、それは私たちの生活する世界がどういうものかを考えたり把握する材料になる。いや、なってしまうのである。演劇は「世界の鏡」といわれる。それはどんな演劇も観客に自分の価値観を確認させたり疑わせたりすることができるからである。それゆえ演劇を失うと私たちの世界は崩壊する。(この辺のことはいずれ詳しく考えましょう。)
 少し話をずらすと、ぼくらは生まれてから(一応)一人前になるまでに社会から様々に教育される。それらは大まかにいえば、歩くこと(動き方)、喋ること(言葉や感情とその操り方)、ものを考えること(思考や論理の進め方)であり、そしてぼんやりとではあるがそれらをくくる理念(美学・理想といったもの)を把握することである。赤ん坊の成長過程を想像すればわかるのではないか。
 演劇を作ることは、先程も述べたようにある社会を描くことである。もう少し踏み込むとそれを作ることだ。発想を変えれば、今ぼくらが暮らしている社会が教育するであろうことの全てを一旦疑ってもいいということになる。その上で全てを作り変えることだって可能なわけだ。これは演劇の特権と言っていいと思う。
 例えばぼくらが何の変哲もない日常を演劇にするとして、その「日常」がどんな姿をしているのかは実際にその舞台ができ上がるまでわからない。「日常」をどのように把握しているかは人それぞれで違うからだ。そしてそれが作られて披露され、ある場合はその把握のあり方に観客は感動するかもしれないし、あらためて確認するまでもないと退屈に思うかもしれないし、何がやりたいのか分からないとそっぽを向く可能性もある。ただその「日常」にはその「日常」なりの歩き方や嘆き方や考え方、さらにその理念まで描くことができるのである。(くどいかもしれないが、勝手に描かれてしまうのである。)
 この場合、作り手がどこまで「日常」を把握しているかが問題になる。いいかえれば、「日常」をどの程度対象化しているかが問われる。対象化とは「そういうものであると意識されること」と考えていい。作り手にしっかり意識されればされる程、「日常」は厳密なものになる。価値観が厳密に把握されているということはハイレベルな舞台の前提だとぼくは思う。もちろん把握だけで舞台はでき上がらない。その把握を実際の演劇にしていく際に有効なのが、前述の一貫した「養成システム」や「チェックシステム」ではないかと思うのだ。
 集団によって作る演劇はいろいろだ。にもかかわらず、それが何らかの社会を描いてしまうところは共通している。つまり集団は作る演劇に応じた歩き方、喋り方、考え方、理念を持たざるを得ない。持っていないということはない。それを意識していないだけのことだ。
 その演劇がいかなる社会を描こうとしているのか。どのように動き、語り、思考し、そしてどんなビジョンの反映した場所と考えるのか。それらの要素はその集団内でコンセンサスがとれていた方がいい。イメージする社会がより厳密に描けるからである。
 さて、言うは易しである。実はこのコンセンサス作りが大変な曲者なのだ。その作業のためにこそ劇団は存在すると言ってもいい。書いて整理すれば以上のようなことだが、それらは現場で都合よく現れ、順序よく解決していけるような代物では決してない。次元の異なる問題が未整理のまま速射砲のように次々と火を吹く・・・。むろんぼくもその渦中にある。例えば「理念」と一言で片づけたものにしたって、どこにそんなものがあるのか、かなりあやしい。無いのかと迫られれば、少なくとも以前よりははっきりしてきていると言うしかない。・・・お恥ずかしい限りだが、まだそんな状態だ。
 字数が尽きた。次号引き続き考えていくことにする。

「演劇ぶっく」誌 1995年4月号 掲載

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