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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方⑦】『地図』と『美学』(劇団の作り方5)/95年6月号

演劇の正しい作り方7/95年6月号

 俳優の「養成システム」と「チェックシステム」。劇団はこの両方を兼ねることができる。それができるのは今のところ劇団だけだ。その意味を考えていこうと思う。
 「養成システム」とは何か?
 「和」「洋」「中」、どれでもいい。俳優を料理人に置き換えて考えてみよう。
 まず当たり前のことだが、和食が作りたくて洋食の修業をする人はいない。料理人は作りたい料理の修業をする。和食を志したものの中華に変更する人はいるだろう。しかし、修業には時間がかかる。その料理に惚れこまなければやがて修業の内容に矛盾を感じるようになるだろう。
 料理の世界に明るいわけではないのでえらそうなことは言えないが、すぐれた料理は奥の深いものだと推察する。奥が深いというのは他の分野への置き換えや比較がきくということだ。
 たとえばすぐれた洋食家ならば、他の料理を食べたときに「これはぼくらでいえばあのスープだな」とか「こういうニュアンスを出す肉の焼き方はぼくらとこのように違う」と、自分の知識や技術の「番地」にあてはめることができるのではないかと思う。
 料理に関して正確な「番地」を持った広い『地図』を持っていること。ひるがえって、他の業種でも(もちろん演劇でも)そうした『地図』を持たせる仕組み。それがすぐれた「養成システム」であるとぼくは考える。

 「歌手やバレーの踊り手なら、たいてい最後の最後まで先生がつきそっている。俳優は、いちどその道を走り始めると、自分の才能を伸ばすのを助けてくれるものをまったくもたない。寒心すべきこの事態は、商業演劇において最もあからさまに存在するが、常設の劇団についても同じことがあてはまる。ある位置にまで達すると、俳優はもう自習をしなくなる」

 ぼくが言うのではない。ピーター・ブルックという大先輩の演出家がその著書『何もない空間』(高橋康也・喜志哲雄訳 晶文社)で述べている。

 「ちょっとした運さえつけば、彼は気に入った職をみつけ、それをうまくやりこなしながら金もかせぎ、同時に褒めそやされる、という結構な身分になりあがる」。そして「しばしば、評判があがるにつれて、俳優はだんだん同じことを繰返すようになる」。やがてそうした俳優は「疲れてくすんでしまう」。そうならないためには、「芸術的成長をめざして仕事をすること」。それは「出世街道に乗ること」とは「必ずしも並行しない」。

 さて、「チェックシステム」である。
 以上のことからピーター・ブルックは「芸術的成長」とは「より退屈ならざる、より生き生きとした、しかし目下のところ輪郭をはっきりつかむことのできない演劇に向かって進んでいくこと」だと述べている。
 料理にはそれぞれの流儀に従った材料の選び方、焼き方、煮方、揚げ方、食べ方(マナー)などがあり、それらの底にはその料理の歴史や地域性と切っても切れない『美学』が流れているはずだ。料理人の意地やこだわりと呼ばれるものはそこから出ている。その『美学』に照らして今の自分の作業を再点検すること。その仕組みが「チェックシステム」だとぼくは考えている。
 『美学』というのはおそらくどこまでいってもおぼろげな予感でしかない。しかし、それを徐々にはっきりさせていく。また、その意志さえあればそれは次第に明瞭になってくるのではないかと思う。それは頭の中だけで悶々と悩むことではなく、具体的な作業を通じて行われる。「この食材でいいのか」「この火加減が最適なのか」「塩は本当に必要なのか」というようなことである。
 それは『地図』の意味を問うていくことだ。「養成システム」を経て自分なりの『地図』を手にしたとして、さてではこの『地図』は自分の求める風景(『美学』)を正確に写しとっているものなのかどうか。それを「チェック」する。
 「チェック」の過程が「番地」の入れ替えくらいで済めばいいが、下手をするとそのために今まで自分が描いてきた『地図』を根底から疑わなくてはならない場合もある。その結果(一時的かもしれないが)『地図』を失う危険性だってあるのだ。
 俳優が「同じことを繰り返すようになる」のは自身の『地図』の意味を問わなくなるからだ。しかし、その意味を問うことは『地図』を失うリスクを抱えている。『地図』をなくしたら仕事などできない。俳優の作業に芸術的な価値があるとしたら、それはそのリスクを負ってなお自分の『地図』の意味を「チェック」することにある。また、料理と違うのは俳優のつくるものが具体的な「もの」ではなく、「人の考え方や感じ方」といった抽象的なものだということだ。
 けれどもだとしたら俳優を経済的に成り立たせるのは極めて困難だということになる。俳優の(芸術の)抱えるジレンマはそこにある。
 芸術にはパトロネージュ(あるいは助成)が必要だという理屈はこういうところから出てくる。経済的に成り立たないから助けるべきだというのではなく、彼らが内面で行っている作業(『地図』の「チェック」作業)は大きな意味で人類共通の財産になるという考え方がその前提にある。
 話がそれてしまった。
 今までの話から問題を整理してみよう。
 「養成システム」「チェックシステム」という観点から今の演劇界を眺めた時、問題はいくつかあると思う。
 第一は「養成」と「チェック」の両方を一つの『美学』のもとに行えるということを、当の劇団がほとんど意識していないのではないかということ。
 それと関連して二番目は、「演劇は何のために存在するのか」、「自分たちはなぜ演劇をするのか」を問い続けていない劇団に『美学』は存在しないということ。
 三つ目はそれぞれの劇団の(あるいは演劇の)「養成」「チェック」システムは、料理における調理法のように重要なものでありながら、実は専門家にもその違いが明確にはわかっていないのではないかということ。
 やや結論を急いでしまった気がする。次回さらにつっこんで考えることにしよう。

「演劇ぶっく」誌 1995年6月号 掲載

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