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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方⑧】めざめよエゴイスト(劇団の作り方6)/95年8月号

演劇の正しい作り方8/95年8月号

 演劇の魅力とは何だろうか。
 なぜお客さんは(時には)映画よりも高いお金を払って劇場に足を運ぶのか?
 なぜ(おそらく)金にもならないのに、演劇を、俳優をやりたいという若い人が後を絶たないのか?
 演劇の現場に関わる者ならば一度は頭をよぎる命題だと思う。「一体ワタシはなぜこんなに演劇に一生懸命なんだろう?」
 今回はそれを考えていくことにする。

 演劇の魅力とは、「今の自分」のために今の自分が使える快感ではないか。そして観客としてそれを眺めるのはまた別の意味で快感があるのではないか、と今のところぼくは考えている。
 一見何でもないことのように感じられるかもしれないが、実は多くの人は必ずしも「今の自分」のために自分の労力や時間を使っているわけではない。「今の自分」を他人のためや将来の自分のために使っている。それをおかしいと言うつもりなどさらさらない。それが当たり前だ。でないと社会は成り立たない。そして演劇が当たり前でないのはまさにそこのところだと思う。
 演劇を始めて、ぼくらは初めて「今の自分」のために使ってもよい自分に出会う。親のためでも学校のためでも会社のためでも社会のためでもなく、また将来の自分のためでもない「今の自分」を魅力的にするために自分を奉仕させてよい世界を発見する。そしてその新鮮さに驚き、とまどう。
 ぼくらをとまどわせるのは、それが本質的な意味でのエゴイズムとの出会いだからだ。ぼくらは初めて「悪」ではない「正しい」エゴイズムに対面するのである。そしてびっくりするような自由を感じる。それは同時に不安や恐怖も伴うが、多くの場合快感がまさるようだ。それゆえ、とまどいながらも演劇を続けていくことになる。
 幼い頃、ぼくらはおそらく今よりわがままだったに違いない。「あれがやりたい」「これが欲しい」と周囲に率直に表明してきたと思う。それが、親や学校や社会によって「他人に迷惑をかけてはいけない」ことや「自分のやったことに責任を取る」ことを教育されていく。それはある程度必要なことだ。ただその過程でエゴイズムを全くの「悪」と思い込まされてしまいがちで、「やりたいことをやる」という当然のことを必要以上に否定されるきらいがある。ややもすると「今の自分」がやりたいことを尊重せず、忘れてしまう弊害さえ生んでいるように思う。
 おそらく今の日本の教育に一番欠けているのはその部分ではないだろうか。「自分のやりたいこと」を社会の中でやっていくための具体的な方法論の伝達、それが欠けている。教育の一番根本にあるべき「やりたいことの自覚」を導かないため、演劇に出会った時(例えば大学で出会ったぼくなどは)先程のような強い衝撃を受けるのだと思う。「今の自分」のために自分を使ってよいという異常なしかし自由な事態にである。
 「自分のやりたいこと」を尊重できない人間に「他人のやりたいこと」が尊重できるだろうか? 美術や音楽のように演劇の教育も小学校から(あるいはもっと前から)行なうべきだとぼくは考えているが、その根拠は以上のようなことだ。演劇に限らずライブの表現形態というのは「今の自分」を尊重させるのに、また「やりたいこと」を自覚させる上でとても有効だと思う。そして演劇は中でもライブ性が特に強いのではないかと考える。
 スポーツや文化というものはそもそも実社会では役に立たないものだ、と思う。例えば異常に体格のよい人間が思い切りその体をぶつけあっても誰も腹一杯にはならない。ボールに棒を当てようと振り回したところで誰かの病気が治るわけでもない。ただそういう一見何の役にも立たないことがやけに得意な人間がいて、彼らは放っておくと暴れ出したり物を壊したりしかねない。それをスポーツという容れものに入れることによって実社会で「娯楽」という役に立つものにする。
 演劇も同じで、劇団を作る人間たちなど放っておけば自分たち(だけ)の理想社会を夢見てなまけているか社会転覆を図る危険集団になりかねない。それを文化という枠で囲ってとりあえずは「娯楽」を提供させる建て前を社会は与えている。「娯楽」を眺めて観客は、あるいは心が慰められ活力とし、さらには実社会を具体的に変えていく何らかのヒントを得ることだってあるかもしれない。
 それが現代の全てのスポーツや文化の実像だとは言わないが、そういう一面は間違いなくある。
 こう考えてくると、演劇人はまず「やりたいことをやる」エゴイストでなければならない。そして演劇作りというのはそのエゴイストを魅力的にするためのノウハウの宝庫でなければならないことがわかる。
 演劇を志す人間は、たとえぼんやりとではあっても「今の自分」を輝かせたいとか、嘘であっても夢のような世界に生きたいと願って演劇の世界に足を踏み入れる。その冒険には当然のことながらリスクが伴う。責任の伴わないエゴイズムなど存在しない。リスクとは、「他人に奉仕すべき自分」や「将来の自分」を保留、または放棄することだ。わかりやすく言えばお金にはなりにくく、将来に何の保証もない。それが「今の自分」のために自分を消費する代償なのである。本人が意識しようとしまいと、そのリスクを背負って演劇活動は始まる。
 一方受け入れる側の劇団にそれだけのノウハウの準備があるのか、あるいはそれを蓄積していこうという認識があるか。今一番問われているのは実はそこのところだと思う。
 果たしてエゴイストをめざめさせられるのか?
 演劇に魅力を感じ、門を叩く人は確かに後を絶たないが、何のノウハウの伝達もなく無為に日々を過ごした結果、この世界に見切りをつける人が多いのもまた事実だと思う。それは演劇界の損失のみならず、社会全体の損失になる可能性だって考えられる。
 劇団の「養成システム」とはそこに属する人間の「今の魅力」をどれだけ引き出せるかという技術である。「魅力」をどう考えるかは劇団によって様々、そのための技術もまたいろいろな存在の仕方があるだろう。そのバリエーションと深みが裏返せば社会の豊かさの指標なのである。
 次回からはその具体的なノウハウにも触れていくことにしよう。

「演劇ぶっく」誌 1995年8月号 掲載

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