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コラム

安田雅弘演出ノート

オイディプス@Tokyo/2017.2

重要で素朴な問題/安田雅弘

 「オイディプス王」は、2500年ほど前にギリシア神話をもとに書かれた悲劇である。舞台はテバイという都市国家。そのテバイに疫病が蔓延し、国がほろびそうになっている。国王のオイディプスは、それを解決しようとデルポイにある神殿にうかがいをたてる。この「神託」は今でいう、裁判所の判決や議会の決議のような重さと説得力をもっていた。実際のところ当時の「神託」にそれほどの信頼性があったのか疑問符はつくものの、少なくとも作者はそういうイメージで書いたのではないかと考えられている。
 オイディプスが王になる前、ライオスが国王であった。ライオスは殺されて亡くなったが、犯人はつかまっていない。その穢れが疫病蔓延の原因だと神託はいう。人殺しは穢れた者であり、その穢れには伝染性があると信じられていた。犯人を見つけないと国の滅亡は避けられない。
 オイディプスは捜索に乗り出すが、信じがたいことにどうやら犯人は当の自分ではないかという疑いが生じる。それだけでなく、赤の他人だとばかり思っていたライオスが自分の実の父親であり、さらにライオスの妻であり今は自分の妻であるイオカステが、実の母親であることも明らかになる。彼はイオカステと結婚し子どもをもうけている。いくら何でも自分の母親と結婚するだろうかと私たちは考えるが、ギリシア神話では年齢は無視していいことになっていたらしい。
 全てが判明したのち、オイディプスはそれまで信じていた世界や価値観を否定するために自分の目をつぶす。
 とてもシンプルなストーリーである。
 私はこれをただの昔話だとは思わない。むしろ現代の我々にとって切実な話だと感じている。オイディプスというのは、「腫れた足を持つ者」という意味だ。ライオスは別の神託を受け取っていて、それは彼が自分の子供に殺されるというものであった。そこで生まれてきた自分の子を殺すよう命じて捨てさせる。その際、子供のくるぶしに留め金をかけた。足を動かないようにすることは、その人の思考を停止させると当時信じられていた。結局オイディプスは死ななかったがその傷がもとで「腫れた足」と呼ばれるようになった。
 そんな名前を持った理由をオイディプスは一度も問わなかったのだろうか。この重要で素朴な疑問にしっかりと対峙していれば、あのような悲劇に見舞われることはなかったのではないかと考えてしまう。自分の出自を知れば違った対応があっただろうに、と。
 そう考えて来ると、これは私たちの姿そのものであることに気づく。私たちは目先の課題に気を取られ、重要で素朴な問題を無視しがちだ。
 「人にはなぜ神が必要なのか」とか「人はなぜ争うのか」とか「強いものは弱いものから奪っていいのか」とか「人は人を裁く資格があるのか」とかいった問題である。
 私たちは普段そういうことはめったに考えない。国家間の紛争や、環境破壊についても少しは考えるがそれほど時間をかけて深刻には考えない。少なくとも私はそうである。
 重要で素朴な問題に目をそむけているうちに、粛々と破滅に向かっている。そういうおろかな私たち。それが「オイディプス王」の行間から見えてくる人間の姿ではないだろうか。ギリシア悲劇は、だったらこうすればいいということは一切語らない。淡々と人間はこのようにおろかである、ということを語りかけるのみである。

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