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コラム

安田雅弘演出ノート

Anniversary/2017.3

「もう一人の私」発見「記念日」/安田雅弘(監修)

 心底悲しい者に「悲しい演技」はできない。その人は「当人」として深い悲しみに沈んでいるからだ。心から嬉しい場合も同じである。その人物は喜びの只中にいるのであって、「嬉しい演技」をしているわけではない。では「悲しい演技」をする俳優は悲しくないのであろうか。それはむろん悲しい。しかし、悲しんでいる「当人」の背後に、「今の自分がどのようにどれほど悲しがっているのか」をじっと見守る「もう一人の自分」がいるのである。その「もう一人」を用意できるかどうかが演技の要諦であり、用意できた「もう一人」に注視されながら、それでもしっかりと悲しめるのかどうかが演技の技術になる。「離見の見(りけんのけん)」とは、能楽を完成した世阿弥の言葉で、自分を極力客観的に眺めるよう戒めている。外から見た姿かたち、すなわち外見のことを指摘していると同時に、実はこの感情と演技の関係も言いあらわしているのである。
 研修生が最初にぶつかる壁、そして俳優を続ける上で一生つきまとうのがこの「離見の見」である。いやひょっとすると俳優に限らず、世界に「人間性の回復」をもたらすためには、すべての人類に求められる視点なのかもしれない。とは言え、演技というものに正対して一年二年という彼ら研修生が、そのことに明確に思い至るのはもう少し先の話ではないかと思う。
 山の手事情社の研修プログラム修了公演はベテラン劇団員が毎年順送りで演出を行なっている。従って毎年著しく作風が異なる。そこが面白いところでもある。今年は研修生一人一人に降りかかったドラマを丁寧に追う構成になっている。職場でうまく行かない者、恋愛や結婚が思い通りにならない者、家庭や周囲との関係をちゃんと築けない者…。実体験ネタも、そうでないものもあるだろうが、感情の核の部分においては、それぞれの真実に違いない。当初稽古場で見た彼らは「当人」になろうともがいていた。ただ「悲しくなろう」としていたのである。それではうまくいかない。「当人」と一歩距離を置いて客観視できないかぎり演技など成立しないのだ。ところが演技というものは自転車に乗ることと同じで、人に教わってできるようになるしろものではない。失敗を糧に自分のものにするしかない。本番が近づくにつれて、徐々にではあるが彼らの中におぼろげながら「もう一人」が現われはじめているように感じる。もちろんまだ煙のような状態だが、それでもその「煙のもう一人」から「当人」が見えるようになるのだとしたら、それは彼らが研修生を「卒業」することを意味する。
 すばらしい「卒業記念日」に立ち会いたい。

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