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大久保美智子演出ノート

班女/2017.6-7

 言葉を使うのが苦手だから俳優になったのに(人の書いたセリフを喋ればいいから)こんな文章を書かなければならない。語るべき自分などないと思っていたのに、選んだのは「自分のことを自分の言葉で喋れなくてどうする!」という劇団だった。おかしい。間違っている。どうやら私は自分のできないことに憧れをもち、自分に向いてないことを必死でやることで、マゾっ気を満足させているようだ。
 しかもトコトンやりたい。今回も自分のトコトンにメンバーを付き合わせてしまったので、稽古場の疲労感がハンパない。若干反省している。
 「班女」の主役・花子も、トコトンやる奴だな、と思う。私などは及びもつかない位トコトンやっている。何をやっているかというと、待っているのだ。
 これを「幸せを受け取れない性」とすると私自身はとても分かるのだが(私も受け取り下手です)その説は取らなかった。
 花子は自ら待つことを選びとっている。絶対的な不幸に身を置くとき、人は常人とは違う風景をみるのではないか。それが人の狂気に対する憧れだと思う。
 「待つ力が私にある」と劇中で花子は宣言するが、「不幸になる力が人間にはある」ともいえる。そしてそんな自分を「私は生きている!」と表現する。
 ネガティブが極みまで行くと反転して輝きを放つ。狂ったっていい。不幸になったっていい。反転してそれは究極の幸せなのかも知れない。小さく小さく自分の内に引きこもった花子は、宇宙の広がりの中に生きるのかもしれない。

 これは希望だと私は思います。だって花子は美しいから。
 それを体で納得していただければ、この上演は成功だといえます。もちろん美人は出てきません(笑)

 みなさんの体の中で、この「班女」の登場人物の人生が息づくことを、演出家としては願っています。

大久保美智子

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